「SG鳴門王座特区戦——父の影を追うのをやめた先に、何が残るのか」
三月、ボートレース鳴門。
春の訪れを告げる最高峰の祭典――SG『鳴門王座特区戦』の火蓋が、ついに切って落とされた。
光はピットの床へと足を踏み入れた瞬間、防潮壁を蹴る足の裏の感触を通じて、大鳴門の獰猛な水面を冷徹にハッキングしていた。
ここは、俺にとっての第二の故郷だ。初めて師匠・香芝大二郎の放った絶対の《波濤》に触れ、力任せに弾き飛ばされた原点の場所。相手の圧を己の質量へと変換する『揺りかご』のロジックを叩き込まれた場所。杏奈と同じ激流の決勝に立ち、大敗の泥を舐めた場所。
――そして、地を捨てて空へ逃げた父・速水誠が、自らの推薦枠を以て俺を呼び寄せた決戦のステージだ。
(父に――あの男の背中に届いたか)
その消えない問いが一瞬だけ脳裏の回路を過り、そして静かに消えていった。答えのログはまだ出力されない。ただ、今日、俺は間違いなくこの世界の頂点のピットへと立っている。
ハイドロの最終チェックを行っている光の元へ、師匠の大二郎と、その妻であり「内側からの波」を司る岩崎架純が歩み寄ってきた。
「光くん、ついにこの最高峰の舞台ね」
架純が春の潮風に長い髪を揺らし、凛とした声音で光を見つめる。
「誠さんの影を盲目的に追うのは、もう今ここで終わり。ここからは、あなた自身の頑強な大地を、世界に見せつける時よ」
光はその言葉を、骨の最深部で静かに受け止めた。
父の影を追うのを、やめる――その絶対的な決別と自立のロジックを、かつての父を知る架純の口から明確に突きつけられたのだ。
光の中で、これまでの計算式が不気味に駆動を始める。
あの大王の航跡を追うのを完全にやめたとき、一体、俺の回路の底には何が残るのか――という新しい断層への問い。やはり、答えのデータは出ない。
その時、修羅のような緊迫感が支配するピットの空気に、ひどく場違いな異質の色彩が浮き上がってきた。
真冬の名残のある三月だというのに、肌を露出させた派手なアロハシャツ。
だが、その男の裾の隙間から漏れ出てくるマブイの熱圧は、鳴門の分厚いコンクリート床を物理的に歪ませるほどに重く、狂暴だった。しかも――その男は、なぜか目からボロボロと大粒の涙を流していた。
佐賀支部――大峯大輝。
全国のトップランカーたちから『泣き虫アロハレーサー』と恐れられる、凄絶な魔戦特区の怪物だ。
泣き顔という奇妙なビジュアルとは裏腹に、彼から全方位へと放たれる圧倒的なマブイの重力波(G圧)が、光の一六三センチのコンパクトな体躯へとズシンと容赦なくのしかかってくる。
「おい、そこの不愛想な速水君!」
「……何だ、お前は」
「親父から聞いてるばい。誠さんの息子は、どんな狂暴な引き波にも一ミリも動じない岩山のごたっと。……だったら俺のこの涙で、その頑固な岩山ごとドロドロの跡形もなく溶かしてやるけんね!」
大輝が泣き顔のまま、アロハの袖を翻してハワイアンの『シャカ』のポーズをカチリと決めたその瞬間――彼の目から零れ落ちた涙が、床に触れた刹那に沸騰した『熱泥』へと変貌し、鳴門のピットの床をジュウ、と凄絶な地熱の白煙と共に歪ませてみせた。
「がはは! 光、あいつのあの涙をただの泣き言と舐めるなよ」
大二郎が太い腕を組み、地鳴りのような声を響かせる。
「あいつの特性は、感情が激しく昂るほどに体内マブイの出力が反比例して跳ね上がる特殊回路だ。あの涙は、奴の超高熱モーターを駆動させるための最凶の点火装置なんじゃ」
「分かっている、師匠」
光は冷徹なトーンのまま、ヘルメットを小脇に抱え直した。
「だが、俺の叩き上げた地脈は――その程度の生温かい涙の泥流では、一ミリも流されはしない」
第一レースの開始を告げるファンファーレの残響の中、足元でネが低く一声、肯定するようにガルルと鳴いた。
光はゆっくりと、玄武のシートへと深く沈み込み、スロットルレバーを固く握り締めた。
父の推薦によって、俺は今この神々の戦場にいる。父の影を追うのをやめろと、先人から宣告された。
それでも――俺の骨の底にあるあの男への問いの火は、消えるどころかさらに黒く巨大に燃え上がっている。
大鳴門の巨大な渦潮が、いつもとまったく変わらない狂暴さで巻いていた。
「行くぞ、ネ。俺たちの本当の大地を現出させる」




