「着信——今、電話をかけてきた父がいる」
二〇五三年、一月――深夜。
三重・津での劇的な大外優勝、そして各地の一般戦における着実な入着スタッツの積み上げにより、速水光はついに『A2級』への即時昇格を果たしていた。
さらに、江戸川でのフライングによって長期間の出場停止ペナルティを課された杏奈は、その有り余るエネルギーのすべてをぶつけるようにして、鳴門の自室から徳島市内の光のマンションへと、半ば押しかけ女房のような形で荷物ごと転居してきていた。
地元でのささやかなA2昇格祝賀会が終わり、深夜、二人は駅近くのマンションへと戻る。
室内の衣紋掛けには、杏奈の趣味であるあのゴスロリをはじめとするコスプレ衣装が大量に吊り下げられていた。足元の大きなクッションの上では、先住犬のネと赤柴の焔が、互いの体温を分け合うように丸くなって穏やかな寝息を立てている。
「……光、A2になったからって、ちょっとは男らしくなったじゃない」
コートを脱いだ杏奈が光の腕の中で、普段水上で見せるあの狂暴な『炎』を完全に消し去り、一人の少女としての柔らかな顔を覗かせていた。
「……杏奈のあの強い炎を水上で支え続けるには、俺の地脈は、もっと大きく頑強にならないといけないからな」
「ふん、知ってるわよ――」
その甘い空気を切り裂くように、室内に無機質な電子着信音がけたたましく鳴り響いた。
プルルル、プルルル。
光が電子頭脳の回路を現実に引き戻し、スマートフォンの画面をロック解除する。
液晶に表示された、あり得ざる発信元の文字列。
――『着信:速水 誠』。
光のミリ単位の精密な指先が、その瞬間、物理的に完全に凍りついた。
「……光、出んでええよ。夜中じゃし」
「すまん、杏奈。これだけは、俺の人生のすべての回路を懸けて、今出ないといけない」
光は冷徹な手つきで通話ボタンを押し、スピーカーモードへと切り替えた。
『……もしもし。光か』
受話口から流れ出してきたのは、かつて世界のすべての水面を絶対の黄金で統べた男の、不気味なほどに低く、気高い声音だった。
光の喉が硬直する。一瞬の間、何も言葉を出力することができなかった。
「……はい。親父。……久しぶりだ」
『A2への昇格、データで聞いたぞ。徳島という新天地で、良い師匠と、最高の仲間に恵まれたようだな。……特にお前のすぐ隣にいる、その炎の娘には、親としても感謝せねばならんな』
光と杏奈は、息を呑んで互いの顔を見合わせた。自分たちの現在地も、この部屋の目方も、すべてがハッキングされている。
『お前に、最高本部の決定を通達する。三月、お前の地元・鳴門で開催される最高峰の舞台――SG・鳴門王座特区戦。お前に、主催者推薦枠での特別選出が正式に決定した』
ドクン、と光の心臓が激しく跳ね上がった。B1からA2に上がったばかりの自分に、SGの招待状。
『対戦相手は、俺がかつて現役時代に叩き潰してきた化け物たちの生き残り、そして新時代を担う怪物どもだ。俺の残したあの黄金の航跡を超えたいのなら、お前が選んだその泥臭い地脈で、大鳴門の荒波をすべて完全な不動の凪に変えてみせろ。……それと、その横にいる娘を泣かせるような無様な走りは、絶対に水上でするなよ』
短い警告音の後、ツーツー、という冷徹な切断音が静まり返ったリビングに響いた。
部屋に、元の鋭い冬の静寂が戻ってくる。
光は暗転した画面を凝視した。履歴には、確かに『速水誠』という王の名前が刻み残されている。
父に――あの絶対の背中に、俺の地脈が確かに届いていた。
「なぜあの時、俺の走りを一度も見なかったのか」
という地獄のような問いの火が、あの下関の水面から、光の骨の底でずっと昏く燃え続けてきた。
だが今夜、父自らが電話をかけてきた――その事実だけで、回路の描く問いの構造が、劇的に書き換わっていくのを感じた。
「俺を見なかった過去の父」を追うのではない。
「今、この瞬間、俺の質量を見つめている現在の父」がそこにいるのだ。
「……光。今、あの人、SGって言った? 三月の、鳴門のクラシックに出るん……?」
隣で硬直していた杏奈の、震える声が鼓膜に届く。
「ああ」
光はヘルメットを置く時と同じトーンで、冷徹に言い放った。
「杏奈。……イチャイチャしてる場合じゃなくなった、これ」
杏奈は一瞬だけ呆然とし、それからカッと顔を赤くして、ひどく愛おしそうに破顔した。
「ふふ、あはは! 本当にあんたらしいわ、このバカ!」
その魂の熱圧に反応するように、先ほどまで寝ていたネと焔が同時に起き上がり、主人の新たなる闘争の始まりを肯定するように、静かにその尾を振った。
翌朝、野田ワークス・鳴門店のガレージ。
あかりは、冷たい朝靄の中でノートPCのデータを開いていた。
画面には、光のA2昇格の数値と、本部から届いた『SG・鳴門王座特区戦 推薦選出』の公認情報が、一対の断層のようにガチリと入力されていた。
彼女はしばらくの間、その無機質な文字列をじっと見つめ続けた。
「……本当に行くんすね、光くん」
誰もいないコンクリートのガレージの暗がりに向かって、あかりはぽつりと、一言だけ呟いた。
それから、彼女は迷うことなく、漆黒の玄武のメインデータを開き直した。
全国の、いや世界の神々が集うSGの戦場。そこへ光を送り出すためには、現在のセッティングをすべて白紙に戻し、限界を超えた超重力の調整をまた一から組み直す必要がある。
やるべき計算は、それこそ山のように残されている。
だが――それはいつもの、アタシたちのガレージの光景だ。
あかりは手のひらの赤い痕を隠すようにして、ゴツい鉄製のスパナを力強く手に取り、エースモーターのボルトへと、その冷たい視線を真っ直ぐに叩き込んだ。




