「待っていてくれ——お前が帰ってくる場所を守る」
二〇五三年一月、遠征六日目――ついに運命の優勝戦の火蓋が切られた。
東京都・ボートレース江戸川、第十二レース。
一号艇、白の勝負服を纏った杏奈は、すべての風を焼き尽くさんと、狂暴な炎のマブイを爆発させてスリットラインへと飛び込んだ。
その刹那。
『一号艇・南野杏奈、フライング――ッ!!』
場内に、すべてを無に帰す非情な大音量のブザー音が鳴り響いた。
杏奈は水面の上で、一瞬だけ物理的に制動を失って止まった。自分が今、一体何をしてしまったのか。A1の、その上の記念戦線の切符をすべて失う致命的な大罪を犯したのだと、脳細胞が理解した。
足元で、主人の絶望を察知した赤柴の仔犬・焔が、悲痛な声でキャンキャンと短く鳴いた。
同じ時刻、三重県・ボートレース津。
緑の六号艇を駆る光のスリットタイミングは、コンマ〇五。
一マーク。内側の最高峰のA1勢が鈴鹿おろしの突風に一瞬だけ煽られ、舳先をバタつかせたその僅かな間隙を、光は大外から冷徹に差し込んだ。
大村のイン神話を破壊し、戸田の箱庭で磨き上げたあの『揺りかご』の形状が、伊勢湾の極悪な風圧をも完璧にアースし、自らを前へと押し出す強固な根へと反転させる。
「六号艇・速水光、抜けたぁぁ仕様――ッ!! 大外六コースから完璧なるまくり差し炸裂ゥゥッ!!」
実況の絶叫。
一着ゴール。GⅢ・津ウィンターカップ、優勝。
ピットへと帰瀧し、カポックを脱ぐ光の元へ、あかりが息を切らせて駆け寄ってきた。
「光くん……! 大外から全部ひっくり返す、最高の、完璧な走りだったっすよ……!!」
彼女の大きな瞳から、大粒の涙が溢れ落ちていた。
光は、その涙の雫を静かに見つめた。あかりがエンジニアの仮面を剥ぎ取って、これほど剥き出しに泣いている姿を見たのは、いつの日の水面以来だろうか。
ふと、あかりの視線が、ピットのモニターに映し出された他支部のリザルトデータへと向かった。
直後、彼女は言葉を失って、呆然と黙り込んだ。
「……杏奈ちゃんが」
光もまた、その視線を追って電光掲示板のログを見つめた。
そこには、冷酷極まる一列の暗号が刻まれていた。
――『江戸川12R 南野杏奈――フライング(F)』。
「……杏奈が、フライングを」
ドクン、と心臓の奥が冷え切った。
たった今、大外からすべてをひっくり返して掴み取ったはずの優勝の熱圧が、一瞬にして、体内のすべての血管から引き潮のように引いていくのを感じた。
その夜。競技本部から返却されたスマートフォンを開くと、杏奈から、一通だけの短いメッセージが受信されていた。
『光、優勝おめでとう。あんたはやっぱり、本物の不動の大地になったんじゃな』
光は無表情のまま、液晶画面に表示されたその歪な文字列をじっと凝視し続けた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、自らが見込んだ誰かがフライングを叩き、奈落へと堕ちていった夜に、その骨の奥で一体何を感じていたのだろうか。
その消えない問いが昏く湧き上がり、そして静かに消えていった。
「杏奈」
光は、届かないとわかっていながらも、遠い夜空に向かってその名前を静かに声に出した。
「待っていてくれ。お前が帰ってくるためのその大地を、俺が必ず、水上で守り続ける」
足元でネが、その誓いの目方を保証するように、低く一声だけガルルと鳴いた。
同じ夜、鳴門の野田ワークス・ガレージ。
あかりは、一人でノートPCのすべてのプログラムを閉じた。
画面の端には、光の優勝の眩しいスタッツと、杏奈のフライングという残酷な失格のデータが、一対の断層のように並んでいた。
彼女はもう、そのどちらの数字も今夜は見ようとはしなかった。
カチャリ、と音がした。
あかりは昨夜からずっと握り締め続けていた鉄のスパナを、作業台の上へと静かに置いた。
彼女の柔らかな手の平には、今も変わらず、冷たい工具の形をした赤い跡が、深く、痛々しいほどの質量で刻み残されたままだった。




