「優勝戦前夜——届くっすよ、光くん」
二〇五三年一月、遠征五日目――運命の準優勝戦。
三重県・ボートレース津。
光は前日の泥臭い二着の死闘を以て、準優勝戦への切符をその手にもぎ取っていた。
しかし、累積減点のビハインドが響き、番組が弾き出した最終枠番は『六号艇』。競艇における最外、圧倒的不利とされる緑のカポックだった。
「六号艇か」
光は冷徹な黒曜石の瞳を細め、静かに言い放った。
「ちょうどいい。あの大外の間合いから、前の五艇を丸ごと飲み込む」
凍てつくピット裏のワークエリア。
あかりはノートPCのデータを睨みながら、一人で玄武を完璧に組み上げていた。大外からの激しい前付け、あるいは一撃のダッシュ戦に耐えうる六枠専用の特殊チューニングを施しながら、彼女は一度も視線を上げぬまま、ボソッと一言だけ言った。
「大外から全部ひっくり返すの、玄武のエースモーターに相当な過負荷がかかるっすよ。……でも、その反発の熱量も、バグの確率も、アタシが全部計算の中に組み込んでおくっすから。信じてくださいよ、光くん」
「ああ」
「……はいっす」
それだけだった。
それ以上の複雑な会話は、今の二人には不要だった。
同じ日、はるか遠く、東京都・ボートレース江戸川。
怒涛の連勝で予選をトップ通過した杏奈は、ガラポン抽選で見事に『一号艇』、白の勝負服を搦め取っていた。
「よっしゃあ! 一枠じゃあ! 江戸川の極悪なうねりも、丸山優奈の風も、全部まとめてうちの炎の領域で支配したるわ!」
足元で、新しい相棒である赤柴の仔犬・焔が、主人の闘志に呼応するようにキャンキャンと力強く鳴いた。
その夜。
光と杏奈は、それぞれの宿舎のモニター越しに、電子の海を越えて届いた互いの結果を確認し合っていた。
ボートレース津・優勝戦――六号艇・速水光(地)
ボートレース江戸川・優勝戦――一号艇・南野杏奈(炎)
光は薄暗い窓を開け、伊勢湾の黒い夜空を見つめた。
杏奈、一枠か――という絶対的な事実が脳内の回路を通り抜け、次に「ならば俺は、あの六枠から必ずお前の炎の打点へ届かせる」という確かな電子ログが網膜の裏側に点滅する。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、この命を削り合うような優勝戦の前夜、一体何を考えていたのだろうか。
その消えない問いが一瞬だけ脳裏を過り、そして静かに闇へと消えていった。
「明日、行くぞ」
光は膝の上のネに言った。ネがその覚悟の重さに同期するように、低く一声だけガルルと鳴いた。
同じ夜、鳴門の野田ワークス・ガレージ。
あかりは冷たい蛍光灯の下で、モニターを見つめ続けていた。
大外六枠から玄武がトップスピードで旋回した際の、機首の跳ね(バウンド)のシミュレーションを何度も、何百回も回し続ける。明滅する無機質な数字の波形の向こう側に、光が明日掴み取るべき、眩しい航跡の未来が見えた気がした。
(届くっすよ、光くん――アタシたちの玄武なら、絶対に)
心の中だけで、静かにそう呟いた。声にはならなかった。
彼女は再びゴツい工具を取り、もう一度だけ、自らの手で玄武の脈打つ本当の心臓を、愛おしそうに確認し直した。
翌朝。ついに迎えた、優勝戦の日の発走時刻。
ボートレース津の上空は、昨日までの嵐が嘘のように青く澄み渡っていた。狂暴だった鈴鹿おろしも、今朝は静かに牙を収めて穏やかだった。
光は漆黒の玄武へと深く乗り込みながら、防潮壁を蹴る足の裏の感触を通じて、津の水流を冷徹にハッキングしていた。
大外六コースから、一体どこの断層へ、どの深さで大地の根を張るべきか――昨夜から電子頭脳が弾き出し続けていた、唯一の最適解。その絶対の座標が、今、確かな接地感となって足の裏に届いた。
ここだ。ここしかない。
「行くぞ、ネ」
はるか遠くから、相棒の気高い声が響いた気がした。低く、短く、王の進撃を促す一声。
光は前を向いたままヘルメットのシールドをカチリと下げ、力強くスロットルレバーを握り込んだ。




