「三着——ここから、やり直す」
二〇五三年、一月。
三重県・ボートレース津、予選二日目。
前日の極悪な荒天による機体のダメージを全身に抱えながら、光は朝の凍てつくピットに立っていた。
『光くん、昨夜の居残り整備でハイドロへの浸水ダメージは完全に払拭したっす。でも……もう一度、あの鈴鹿おろしの中でチルト三度で行くのは危険すぎるっすよ……』
通信レシーバーから届くあかりの声には、エンジニアとしての確かな焦燥が混ざっていた。
「今日は〇・五度に下げる」
光は冷徹な声のまま、アジャスターを固定した。
「風と正面から戦わない。風の圧力をすべて受け流して、水面の一番重い断層を突く」
三号艇、赤の勝負服。
伊勢湾からの狂暴な突風が吹き荒れる中、光はチルト〇・五度の低重心設定で、漆黒の玄武を冷酷に水面へと縫い付けた。
第一ターンマーク。
強烈な向かい風を拾って他艇の機首が激しくバタつうねる中、光の玄武だけは低く、重く、水面の底を薄く削り取るように旋回した。上空の風を拒絶しない――その風圧を丸ごと受け止める。大二郎の教えである『揺りかご』の形状を、〇・五度の接地感の中に完璧に展開していく。
「三号艇・速水光! 重い! 風を殺す低重心の差しハンドルが決まったぁぁッ!!」
意地の三着。
一着ではない。しかし、大敗の泥から完全に立ち直るための、強固な三着だった。
同じ日、東京都・ボートレース江戸川。
江戸川の『風』と潮流を知り尽くすトップランカー・丸山優奈に対し、杏奈は自らの紅蓮の炎を剥き出しにして向かっていった。
「光なら……あいつなら、ここで風に惑わされずにどっしり構えて、一瞬の爆発にすべてを懸けるはずじゃ!」
第一ターンマーク、優奈の放った鮮烈な風の翼によるイン旋回。
杏奈は江戸川の極悪なうねりを炎のマブイで焼き尽くしながら、その内側へと鋭く差した。
二着。絶対の女王・優奈にはあと一歩届かなかった。しかし、彼女の放った熱圧は、間違いなく関東の冷たい川を激しく震わせていた。
その夜。
光は宿舎の静まり返った自室で、電光掲示板の『三着』という数字をじっと見つめていた。
はるか数百キロ離れた江戸川のデータには、杏奈の残した『二着』という文字が並んでいる。
数字だけが、電子の海を越えて届く。声は、届かない。
それでも――転覆寸前のダメージから「三着で完璧に立ち直った」という光の事実と、「二着で世界の壁を走り切った」という杏奈の事実が、同じ冬の夜空の下に、一対の楔のように等しく並び立っていた。
鳴門の野田ワークスで、あかりは一人、その二つの波形データをモニター越しに見つめていた。
津の三着。江戸川の二着。
どちらの戦走ログも、タブレットの冷たい画面の上に、ただ無機質な記号として出力されている。
「明日で、いよいよ双方ともに準優勝戦っすよ」
あかりは、誰もいないガレージの暗がりに向かって、ぽつりと言った。
「……しっかりしてくださいよ、光くん。アタシの心臓は、まだ牙を失ってないっすよ」
彼女は再びゴツい工具を取り、データの微調整を始めた。エンジニアの戦いは、まだ終わってなどいない。
光は宿舎の薄暗い窓を開け、遠く離れた方角の黒い地平を見つめた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、これほどまでに張り詰めた夜を知っていたのだろうか。
激流に叩き潰され、それでも三着で泥臭く立ち直って、なおも明日という名の次の戦場が牙を剥いて待っている――そういう、不器用で重たい夜の目方を。
脳内の電子頭脳をいくら回しても、答えのログは出力されない。
「明日、準優勝戦だ」
光はヘルメットのシールドの傷を指先でなぞり、静かに呟いた。
「全部やり直す――ここから、俺たちの地脈を繋ぐ」
足元でネが、その覚悟の重さに同期するように、低く一声だけガルルと鳴いた。




