「玄武の心臓——光くんのは全部、ここから聞こえてる」
二〇五三年、一月。
三重県・ボートレース津。伊勢湾から吹き付ける極寒の『鈴鹿おろし』が荒れ狂う難水面に、速水光は漆黒の玄武を静かに降ろした。
一方、同時刻の東京都・ボートレース江戸川。凄絶なビル風と変則的な河川の潮流が複雑に絡み合う、日本最難関の『魔の川』に、南野杏奈が鮮烈な赤いカポックを締め上げていた。
数百キロもの距離を隔てた別々の場所で、二人の異能のレーサーが、同じ日に、同じ牙を剥く冬の激流を走る。
野田ワークス・鳴門店の、静まり返ったガレージ。
あかりは、冷たい作業灯の下で、ただ一人ノートPCのモニターを凝視していた。
『津』の出力データと、『江戸川』の環境ログ。二つの遠い戦場の波形が、高解像度タブレットの二画面に冷徹に並び立っている。
『光くん、津の突風は鳴門のうねりとはまた全く違う性質っす。大気中の変質したマブイが、地脈の周波数伝達を細かく乱してるっすよ』
音声レシーバー越しに、エンジニアとしての冷徹な分析を伝えた。
耳元から、光の「分かった」という短い、だが確信に満ちた声が返ってくる。短いノイズと共に、通話が切断された。
あかりは再び、静止したタブレットの画面を見つめた。
津のデータ。江戸川のデータ。どちらの画面にも、まだ激流の航跡は映し出されていない。本番のレースは、まだ始まってはいなかった。
あかりは手甲の油を拭い、傍らの工具を手に取った。
カチャ、キチ、と金属の噛み合う音が、無人のコンクリート壁に虚しく反響する。
誰もいないガレージの暗がりで、あかりはぽつりと、自分自身を繋ぎ止めるように独り言を呟いた。
「……光くんの心臓の鼓動は全部、ここから聞こえてるっすよ」
あえて声に出して質量を与えてみたら、胸の奥の凝り固まった重さが、ほんの少しだけ楽になった気がした。
「だから……絶対に、壊しちゃダメっす」
三重・津の第十二レース。水面は白波が立ち、最悪のコンディションへと荒れ狂っていた。
光はスロットルを限界まで握り込んだ。鈴鹿おろしから放たれた目に見えない風の刃が、玄武の舳先を強引に天へと持ち上げようと牙を剥く。
チルト〇・五度――ハイドロは浮かない。ただ、地の質量で沈む。
光はこの上空の突風の圧力すらも、大二郎から授かった『揺りかご』の受容形状へと取り込み、水底へプラグインするための頑強な根へと変換していった。
スタート――ゼロ。タイミングはコンマ〇二。極限のタッチスタート。
同じ瞬間。はるか遠く、東京・江戸川の水面では、巨大なビル風が杏奈の放つ紅蓮の炎を横から強引に削ぎ落とそうと吹き荒れていた。
「優奈ちゃん! 今日は光が横にいないけぇな、うちが代わりにその極悪な風、全部まとめて蒸発させてやるわ!!」
杏奈が魂のマブイを全開に解放した。
江戸川の冷たいビル風が、一瞬にして爆発的な火の回廊へと書き換えられていく。
鳴門のガレージで、あかりは二つのデータを同時に受信した。
津のグラフ。玄武のモーター出力が爆発的に跳ね上がる。光のスタートだ。
――コンマ〇二。
あかりはその狂気じみた数値を網膜に焼き付け、小さく安堵の息を吐いた。良かった、地脈は狂っていない。
直後、江戸川のデータも激しく駆動を始めた。杏奈のスタート、コンマ〇五。
二つの明滅する画面を、あかりは交互に、祈るように見つめ続けた。
どちらの戦場も、今日のあかりにとっては、あまりにも遠かった。
手の中のスパナが、また小さく鳴った。キチ、と。
あかりはそれをそっと作業台へと置き、すべての通信ログが終了するのを待った。
二つのレースが、同時にチェッカーを終えた。
津・速水光――二着。江戸川・南野杏奈――一着。
ポケットのスマートフォンが振動を返す。光からの短いメッセージだった。
『南野さんの結果、データを見たか』
あかりは冷えた指先を動かし、「特等席でちゃんと見てたっす。おめでとうっす」とだけ打ち込んで送信した。
数秒のタメの後、光から『あかりさんも、最高のセッティングをありがとう』と、一通のログが返ってきた。
あかりはその文字列をしばらく見つめ、それからタブレットの画面を静かに閉じた。
次なる過酷な記念戦線の準備は、まだ山のように残されている。
彼女は再びゴツい工具を取り、ノートPCの生データを開き直した。
光の駆る玄武の、あの熱く脈打つ本当の心臓は――今も変わらず、このアタシのガレージの真ん中に、絶対の質量で存在し続けている。




