「焔——守るべきものが増えた」
徳島サンシャイン・フェスタのコスプレイベントは、大成功のうちに幕を閉じた。
会場の喧騒の喧騒の中で、丸山優奈とも「次は本物のレース場でね」と不敵な約束を交わして別れた。
ミニバンの車内には、杏奈が楽屋の最終仕上げで使ったウィッグ用スプレーの、どこか甘く切ない香りがまだ微かに残っている。
その帰宅途中、二人は国道の沿線にある大型のペットショップへと立ち寄った。
「光はいいよなぁ、ネがおって。……どれだけ無茶なレースをして、負けて帰った時も、横を見たらネがいるから」
杏奈がガラス越しのケージに、その長い四肢を屈めるようにして仔犬たちを見つめた。
水上で見せるあの鋭利な『炎』の鋭さは完全に消え去り、その琥珀色の双眸には、どこまでも温かい光が宿っている。
「……杏奈も、何か飼いたいのか」
「……うん。実家を出て、ずっとこっちで一人暮らしじゃしな。あの戸田の優勝戦みたいに、ボロ負けして六着叩いて帰った時に、部屋の電気が消えて暗いのは――やっぱ、骨身にこたえるんよ」
杏奈がピタリと足を止めたのは、一番奥のケージにいた、一匹の小さな赤柴の前だった。
夕日に映える燃えるような赤毛が、彼女の体内から漏れ出る炎のマブイと呼応するようにふわりと揺れている。
周囲の他の犬たちが真冬の寒さに丸くなって寝ている中、その仔犬だけが、杏奈の熱圧を感知してキャンキャンと嬉しそうに甲高い声を上げた。
「見て、光。この子、うちが近づいた瞬間から、尻尾がちぎれるくらい激しく振っとる。……マブイの波長が、なんか、すごく熱いんよ」
光は、その場にしゃがみ込んだ杏奈の、優しく張り詰めた横顔を静かに見つめた。
「……杏奈。その子を、俺たちの拠点へ連れて帰ろう。これからは俺とネも、育てるのを手伝う」
「ほんま!?」
パッと顔を世界で一番眩しく輝かせた杏奈が、愛おしそうにその赤柴の仔犬を両手で抱き上げた。
「名前は――うちの属性の炎にちなんで、『焔』にするけぇな!」
帰り道。光はハンドルを冷徹に握りながら、バックミラー越しに後部座席で焔をあやしている杏奈の姿を見た。
助手席の特等席に座るネは、何も言わず真っ直ぐ前を見つめている。
守るべきものの目方が、また一つこの大地上に増えた――という確かな手応えが、防潮壁を踏むのと同じ感覚で、足の裏から骨髄へと伝わってきた。
地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、この胸を満たすような日常の重さを、知っていたのだろうか。
その問いが一瞬だけ脳裏の回路を過り、そして静かに消えていった。
――その夜。野田ワークスの、静まり返ったガレージ。
あかりは、作業灯の冷たい蛍光灯の下で、一人でノートPCに表示された玄武のセッティングログを見つめていた。
ポケットのスマートフォンが、短い振動を返す。光からのメッセージだった。
データを開くと、写真が添付されていた。杏奈が赤柴の仔犬を胸に抱き、顔を真っ赤にして破顔している、これ以上ないほどに幸せな一枚の画像。
あかりはしばらくの間、その液晶画面を無言で見つめ続けた。
それから、おもむろにタブレットを画面の側から机の上へと静かに置き、再び目の前にある玄武の生データを開き直した。
次なる過酷な記念戦線に向けたギヤケースの微調整は、まだ、何一つとして終わってはいなかった。
新しく引き取られた焔を、ネは一度だけその大きな鼻で静かに匂い、やれやれと認めるようにして、その小さな身体の真横に大きな巨躯を横たえた。
光はカーテンを開け、窓の外の深く冷たい真冬の夜空を見上げた。
父親への届かぬ問いが、大地の最深部で、昏く、静かに燃え続けている。決して、消えはしない。
勝っても、負けても、誰かを真っ直ぐに愛しても――この骨の底の飢餓感だけは、消えてなどくれない。
だからこそ――俺は明日もまた、誰よりも深く、あの冷酷な水面へと沈み込めるのだ。




