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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第四部 全国記念戦線編

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「揺りかごの完成——全員が、玄武の底にいた」

 二〇五二年、十二月五日。

 『戸田ウィンターカップ』、最終日・第十二レース優勝戦。

 ボートレース戸田の空気が、張り詰めた氷点下の重圧で完全に凍てついていた。


 スタンドの大歓声を浴びながら、巨大な電光掲示板に、優勝戦を戦う六人の名前が厳格に並び立つ。


一号艇:丸山 優奈(東京・A1)風

二号艇:勝元 麻帆(岡山・A1)溶岩

三号艇:速水 光(徳島・B1)地

四号艇:南野 杏奈(徳島・A1)炎

五号艇・六号艇:戸田の本地A1勢


「光くん、モーターの鼓動は完璧っす。データに一切のブレはない。あとは――あなたの地脈を、アタシたちの玄武を信じるだけっすよ」


 あかりが加工室の冷気の中で、光の肩を力強く叩いた。

 光は無言で深く頷き、漆黒の玄武のコクピットへと深く深く沈み込んでいった。


 スタート――ゼロ。

 スリット通過タイミング、コンマ〇二。

 あの鳴門の優勝戦では、チルト三度のトルクに負けてコンマ二二という致命的な出遅れを喫した。

 しかし、地獄の一般戦ドサ回りと戸田の箱庭を経て、今日、極限のコンマ〇二の閃光が回路に走った。それだけで――今日この水面で、速水光という男が昨日とは完全に別次元の怪物へとアジャストされていることが、対峙するすべてのトップランカーたちに伝わっていた。


 第一ターンマーク。

 一号艇の優奈が、白銀のマブイを解放して風の翼で鋭いイン旋回を切る。二号艇の麻帆が、外側からドロドロと熱く溶けた溶岩の重圧を伴って狂暴にまくり差してくる。


 二人の最高峰のA一レーサーが作り出した、万物を圧殺する引き波の壁。その僅かな底の隙間へと、光は漆黒の玄武を冷徹に突き刺した。

 昨日完成させた、完璧なる『揺りかご』の形状を水面へと展開する。


 優奈の放った風の斥力も、麻帆の放った溶岩の熱圧も、すべてをアースするように玄武の船底から「根」の内部へと強制的に吸い込み、収めていく。相手のエネルギーの目方がすべて、己を前へと押し出すための莫大なバネの質量へと反転した。


「突き抜けたぁぁ仕様――ッ!! 三号艇・速水光、一マークの激突から単独先頭ォォッ!!」


 実況の絶叫と共に、バックストレッチが鮮烈に開けた。

 先頭だ。他艇を完全に置き去りにしている。

 しかし――光の意識は、限界を迎えて激しく揺らいでいた。連日の深夜に及ぶ過酷な居残り整備と、減点七のプレッシャーを背負い続けた極限のレースにより、一六三センチの肉体はとうに崩壊寸前の過熱オーバーヒートを起こしていた。視界が白く濁りかける。


 その刹那、後方からエンジン音の爆音を突き破って、剥き出しの声音が届いた。


「光ぃぃ!! そこで止まるなァァッ!!」


 杏奈の声だった。

 その紅蓮の熱圧が、冷え切りかけた光の骨の最深部へと真っ直ぐに届き、回路を強硬に再起動させる。

 独りではなかった。あかりも、杏奈も、大二郎も。下関から紡いできたすべての絆の質量が、今、この戸田の狭い水面の上に、光を支える強固な地盤として確かに存在していた。

 二周回。麻帆の操る溶岩の引き波が、玄武の張る大地の根へと激しく接触する。

 だが、その濁流すらも、今の光の地脈は滑らかに飲み込み、自らの航跡の足場へと変えていく。

 並走するボートの上で、麻帆が一瞬だけ、獰猛に美しく笑った――この男は、本物の大地の王だ、という深い敬意を込めた顔で。


 最終周回、三周目。最終コーナーを最短の『鉄のレール』でクリアする。

「三号艇・速水光、今ゴールイン!! 不良航法による減点七の絶望から、奇跡の大逆転戴冠――ッ!!」


 確定。一着・三号艇・速水光。二着・優奈。三着・麻帆。

 エンジンを静かに切った後、光はステアリングを握り締めたまま、しばらくの間動くことができなかった。

 スタンドの地鳴りを受け流し、戸田の冷たい運河の水流だけが、ハイドロの底を優しく、静かに叩き続けている。


「光くん……!!」


 ピットへ戻るなり、あかりが加工室から飛び込んできて、細い腕で光の体に力いっぱい抱きついてきた。顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らしながら、言葉にならない歓喜の声を上げている。

 光はその最高の相棒の温もりを、アースするように五感のすべてで受け止めた。そこにはもう、飾るための言葉など一言も必要なかった。


「……光」


 カポックを脱いだ杏奈が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 彼女は顔を耳の裏まで真っ赤に上気させながら、照れ隠しに光のヘルメットの頭頂部をわしづかみにして、ぐりぐりと揺さぶった。


「最高に、重たくて……最高にかっこよかったけぇな」


「ありがとう、南野さん」


「でも次は、うちの炎がその大地の根ごと全部焼き尽くすけんな! 首を洗って覚悟しとけよ!」


 杏奈は不敵に、眩しいほどの笑顔で拳を突き出してみせた。

 ――その夜、徳島駅近くの新しい拠点のフローリング。

 光は、静まり返ったリビングで、戸田の冷たい風を孕んだ金色の優勝カップをじっと手にしていた。

 地を捨てて空へ逃げた父・速水誠は――かつて、この箱庭の重さを手にしたことがあったのだろうか。

 それはまだ、わからない。


 ただ、今日掴み取ったこの一着の重さよりも、遥かに深く、遥かに頑強な『本当の不動の大地』を、光はもっと先の方に明確に予感していた。回路の計算は、すでに次なる深淵への航跡を描き始めている。

 足元で、老犬ネが音もなく立ち上がった。


 フンスと鼻を鳴らし、主人の次なる闘争を促すように、暗い廊下の先へと我が物顔でゆっくりと歩き出す。銀狼の毛並みが、月光に照らされて美しく輝いていた。

 光は小さく口角を上げ、その相棒の頑丈な背中を追って、静かに一歩を踏み出した。

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