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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第四部 全国記念戦線編

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「二着——炎が来るほど、根が深くなる」

 二〇五二年、十二月三日。

 『戸田ウィンターカップ』、予選最終日。

 氷点下にまで迫る過酷なピット裏に、レーサーたちの吐き出す息が白く凍って消えていく。


「光くん、これが最後の調整っす。主要パーツは全部入れ替えた。今の玄武の中身は、昨日までとは完全に別物っすよ」


 あかりが冷たい空気の中で、使い込まれた工具を光の前へと差し出す。

 光は冷え切った自らの指先で、組み直された鉄の塊を冷徹に締め上げた。あかりの手が残していった微かな体温が、金属を通じて、かじかんだ指先へと真っ直ぐに伝わってきた気がした。


 予選最終日、第十二レース。光の駆る玄武は五号艇、黄色の勝負服。

 上空の雲は重い鉛色。不規則な横風が吹き抜ける戸田の狭い水面へと、光は静かに艇を降ろした。

 チルト〇・五度。ルールによる制限の通り、ボートを浮かせる力(浮力)は一切ない。


 その代わり――水面を通じて、地の底が圧倒的に近い。

 自らの体重と地脈の重力を、艇の重心の真っ芯へと完全に同期させる。水の摩擦を極限まで駆動のグリップとして利用する。浮き上がらない分だけ、玄武はより深く、より強固に水底へとプラグインできるのだ。

 スタート――ゼロ。


 スリット通過タイミングは、コンマ〇一。極限のタッチスタートだった。

 第一ターンマーク。四枠の杏奈が、紅蓮のマブイを爆発させて猛然とカドからまくりを打つ。内側のA級勢がそれに気づき、舳先を合わせて強硬に応戦した。一マークの狭い割れ目が、白く濁る水飛沫で一瞬にして視界から消え去る。


 光は、その一瞬の激突によって生まれたわずかな隙間へと、漆黒の玄武を冷徹に滑り込ませた。

 昨日叩き上げた、あの『揺りかご』の形状を水面へと展開する。杏奈の放った炎の波頭を真っ向から受け止め、それをそのまま前へと押し出すためのバネに変える。 


 炎が激流を焼き、道を拓く――大地はその焼かれた轍を、超重量の爪で正確に踏みしめていった。

 二周目、バックストレッチ。

 視界が鮮烈に開けた。一号艇の背中が肉眼に捉えられる。


 最終周回、三周目。背後から杏奈の赤い艇が猛烈な勢いで追いすがってくる。衣服を焦がすような炎のマブイが背中に肉薄する。


 だが、光は『揺りかご』の受容を寸分も崩さなかった――炎の圧力が激しく来れば来るほど、玄武の根はより深く、水底の岩盤へとプラグインしていく。

 最終コーナーを最短の航跡でクリアする。チェッカーブイが通り過ぎ、ゴールラインを鮮烈に駆け抜けた。


「二着は、五号艇・速水光!! 三着、四号艇・南野杏奈!!」


 実況の絶叫。

 ガチリと確定の電光が灯る。一着・一号艇。二着・光。三着・杏奈。

 ペナルティによる減点七の呪縛を完全に撥ね退け――上位二着クリア。優勝戦進出が確定した。

 光はエンジンを静かに切った。


 ステアリングハンドルを両手で固く握り締めたまま、しばらくの間、コクピットの中で身動き一つすることができなかった。

 周囲の喧騒を置き去りにして、戸田の運河の水流だけが、ハイドロの船底をトントンと静かに叩き続けている。自分の荒い呼吸音が、少しずつ元の冷徹なビートへと戻っていく。その時初めて、自らの一六三センチのコンパクトな体躯が、武者震いのような小刻みな振動から解放されていたことに気づいた。極限のプレッシャーの目方が、皮膚からアースされて抜けていく。


「光くん……!!」


 ピットへ引き揚げるなり、レシーバーからあかりの弾けた声が届いた。

 カポックを脱いだ瞬間、背中を力いっぱい叩かれる。光はあえて振り返らなかった――振り返ってしまえば、あかりの今にも涙を溢れさせそうな、しかし最高のエンジニアの顔を直視してしまうと分かっていたからだ。


「……光」


 杏奈が、優勝戦への切符を手にしたまま光の前に歩み寄ってきた。

 彼女はしばらくの間、黙って光の泥に汚れたカウルを見つめていた。それから、ひどく悔しそうに、しかし眩しいほどの笑顔で笑った。


「うちの炎の引き波を、あんな風に完璧に自分の質量に受け止めた奴、今までの水面で初めてじゃ。今のあんたは――間違いなくこの戸田で、一番重たいレーサーじゃけぇな」


「ありがとう、南野さん」


 光はヘルメットを小脇に抱え、その琥珀色の双眸を見据えて言った。


「明日、もう一回勝負だ」


 父・速水誠は――かつて、この狭い箱庭の水面で、誰かにこれほど真っ直ぐに感謝したことがあるのだろうか。

 その消えない問いが脳裏を過り、そして静かに消えていった。


「当然じゃ!」


 杏奈は不敵にカポックを揺らし、拳を小さく突き上げた。


「明日の優勝戦は、うちが一番にチェッカーフラッグを受けるけぇな。絶対に負けんぞ!」


 足元で、いつの間にかエントランスから紛れ込んでいたネが、その魂の会話に応えるように、低く一声だけガルルと鳴いた。

 光は再び、埼玉の冷たい冬の空を見上げた。

 戸田の空は、どこまでも低く、灰色の雲が一面に広がっている。


 明日、いよいよ優勝戦のグリーンシグナルが灯る。父親もまた――この狭く冷たい箱庭の底を知っているのだろうか。それはまだ、わからない。

 ただ、今日よりも遥かに深い、誰も辿り着いたことのない大地の深淵があるあの場所へ、俺は明日、また何度でも、命を懸けて沈むだけだ。

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