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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第四部 全国記念戦線編

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「不良航法——揺りかごは、包み込むためにある」

 速水光の『戸田ウィンターカップ』二日目は、ピット裏に重苦しい暗雲を垂れ込めさせていた。

 一マークでの強引な締め付けによる追い越しが審判委員に執拗な過失とみなされ、審議の結果、不良航法による『減点七』の即時ペナルティを科されたのだ。

 そして、三日目。


 累積減点七という、鉄の足枷のような重さを引きずりながら、光は朝の戸田のピットに立っていた。

 予選突破のボーナスラインに滑り込むためには、もう一走たりとも落とすことは許されない。


 午前中の第二レース。

 光の駆る玄武は二号艇、黒の勝負服を纏う。

 夜通し整備室で叩き直したプロペラの感触が、感覚の戻った手の平に冷たく馴染んでいた。


 スタート――ゼロ。タイミングはコンマ〇六。

 一マークを最内から強硬に押さえ込む。襲い来る他艇の引き波は、完璧に『揺りかご』の凹へと収まり、衝撃を相殺していく。護岸壁が、下関や大村とは比べ物にならないほど目前に迫る。しかし、狭いことが逆に地脈の根をこの一点へと集中させる――昨日発見した、確かな大地の感触だった。


「二号艇・速水光、見事なイン残しで一着ゴールイン!!」


 まずは一勝。だが、息を吐く暇もなく、午後の第七レースがやってくる。

 三号艇、赤の勝負服。

 ピット裏のワークエリアでコース状況の確認をしていた光の前に、すっと一人の小柄な老レーサーが立ち塞がった。


 地元のA1級ベテラン――全国のレーサーから『戸田の鬼』と恐れられる、水面の支配者だ。

 幾多の激戦を潜り抜けてきたその老いた双眸が、一度だけ、光の駆る漆黒の玄武を一瞥した。言葉はなかった。しかしそれだけで、ハイドロのどこに致命的な隙があるかをすべて見抜いたと言わんばかりの、冷徹極まる眼光だった。


 ファンファーレが鳴り響き、号砲が鳴る。

 スタート直後、光は体内の地脈マブイを全開にし、その圧倒的な超重量のプレッシャーで序盤のストレートをねじ伏せにかかった。二番手まで鋭く浮上する。このまま最短航跡で差し抜ける――脳内の電子頭脳に、一瞬だけ確かな勝算のシグナルが灯った。


 しかし、そこからが、鳴門の渦潮とも全く違う地獄だった。

 ――『消えない壁』が、正面から襲いかかってきたのだ。

 先行艇が撒き散らした狂暴な引き波が、戸田特有の極狭なコンクリート護岸壁に激突し、そのままの勢いで、直角に跳ね返って光の進路へと牙を剥いて戻ってくる。


 一度は『揺りかご』でかわせた。だが、跳ね返った波は対岸の壁に当たり、また来た。さらに多角的な角度から、また来た。

 三周回、最終ターンマーク。玄武の機首が、不規則な多重波頭を拾ってほんの一瞬だけ、外側へと僅かに膨らんだ。


 その刹那、最悪の方向から『戻り波』が直撃した。

 護岸に当たって不規則に跳ね返ってきた鋭い波が、水底へ深く潜り込んでいた玄武の『根』を、側面から力任せに薙ぎ払ったのだ。


 重力で深く沈み込み、根が強固であればあるほど――その全方位のベクトルを想定していない側面から不意の一撃を喰らった瞬間、ハイドロは完全に身動きが取れなくなる。 


 その構造的バグに光が気づいた瞬間には、すでに『戸田の鬼』の駆る艇が、寸分の無駄もない最短の航跡で、玄武の内側を冷徹にハッキングするように差し抜けていた。


 特殊なマブイの属性解放も、超能力のハッタリもない。ただ、戸田という狭い運河の流動を何十年も読み切り、水面のすべてを我が体の一部とした、純粋な『人間の技』だった。


 四着。

 ピットへ戻り、ヘルメットを脱いだ。

 地元の経験という名の、年月が積み上げた大地の壁は、これほどまでに厚く、そして冷酷だった。


「……光。あんた、まだ力で全部解決しようとしとる」 


 気がつけば、カポックを脱いだ杏奈がすぐ真横に立っていた。


「戸田はな、あんたの知っとる広大な『大地』じゃないんじゃ。『箱庭』なんよ。あんたがどれだけ規格外の重たいマブイを振り回しても、この狭い箱の中じゃ、水の反発と流れを完全に読み切った奴が、一番最後に笑うようにできとるんじゃ」 


「分かっている」


 光は指先のオイルを拭いながら、低く絞り出すように言った。


「分かっているけど、身体が、プロペラが適応できなかった」


「分かってないから負けたんじゃろがい!!」


 杏奈の痛烈な怒声が、静まり返った整備室に激しく響き渡る。

 激しい残響の後、数秒の重苦しい沈黙が二人の間に横たわった。

 それから、杏奈はフイと顔を背け、少しだけ声を落として、呟くように言った。


「……でもな。あの絶望的な最終コーナーの戻り波を喰らうまで、あんた、一瞬も諦めてなかった。それだけは、うちが特等席でちゃんと見とったけぇな」


 それだけを吐き捨てるように言い残すと、彼女は足早に歩み去っていった。

 入れ替わるようにして、あかりが沈痛な面持ちのまま、ノートPCの画面を光の前へと差し出してきた。


『明日の予選最終日……他支部のレーサーたちの着順次第っす。本当に、ミリ単位の崖っぷちっすよ、光くん』


 光は何も言わず、ただ黙って深く頷いた。

 その夜。新しい拠点のフローリングの上で、老犬ネが静かに光の膝の上へとその重い頭を預けてきた。

 トク、トク、と伝わってくる、相棒の確かな生命の鼓動。


 だが、光の骨の奥底には、昼間に対峙した『戸田の鬼』のあの眼光が、冷たい楔のようにいつまでも生々しく残っていた。一度見ただけで、玄武の構造のすべてをハッキングするような老雄の目。

 あれは属性ではない。水面に刻み込まれた、気の遠くなるような年月の重みだ。


 父・速水誠は――かつて、この狭い箱庭の運河を走ったことがあるのだろうか。

 あの老いた鬼の目は、かつての絶対王者の航跡を知っているのだろうか――。

 その消えない問いが脳裏を過り、そして静かに闇へと消えていった。


 夜の戸田の運河は、不気味なほどに静まり返っていた。

 光は遮光カーテンを開け、窓の向こうの冷たい黒い水面をじっと凝視した。

 狭い。コンクリートの壁に囲まれて、どこまでも狭い。


 だが――その箱庭の底にある経験の深淵は、誰も触れたことのないほどに、深く、そして冷たく渦巻いていた。

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