「戸田——狭い割れ目の底に、地の底が近い」
二〇五二年、十二月一日。
荒川のすぐ隣に位置する『ボートレース戸田』に、埼玉の鋭い寒風が吹き荒れていた。
光にとって山口・徳島を離れて挑む、二度目のGⅢ――『戸田ウィンターカップ』。
戸田は日本一コース幅が狭い、特殊な運河水面だ。そして何より、この過酷な水面では、光の代名詞となりつつあったチルト三度という極限の跳ね馬設定がルールによって認められていない。
「チルト〇・五度。これが、ここ戸田の物理的な限界設定っすよ」
ピット裏のワークエリア、あかりが冷たい風に身を縮こまらせながら言った。
「チルト三度の上昇力を利用した、あの『地の反転バネ』は使えないっす。本当に剥き出しの地の質量だけで、この狭い割れ目のような水面を突き進むことになるっすよ」
「わかっている」
光は冷徹な手つきで、〇・五度のアジャスターを固定した。
父・速水誠は、かつてこの狭い戸田を走ったことがあるのか――という消えない問いが一瞬だけ脳裏の回路を過り、そして静かに消えていった。
「光!! 埼玉まで来て、まだそんな暗い顔しとるんか!」
聞き慣れた剥き出しの声音が背中に届いた。南野杏奈だ。
一足先にA1級へと昇格した彼女は、現在ここ戸田の一般戦や記念戦線で怒涛の快進撃を続け、すでに優勝戦の有力候補として君臨している。
A1になった南野さんが、こうして徳島から遠征してきている。俺はまだ、大敗のペナルティを背負ったB1のままだ――光はその絶対的な事実を、ただ冷徹に脳内の座標として受け取った。そこには悔しさも焦りも、微塵も存在しなかった。
「暗いんじゃない」
光はヘルメットのシールドを軽く指先で叩いた。
「地の底の音を、聴いているだけだ」
「へんっ、相変わらず可愛げがない! でもな、さっきの展示航走の伸び――あんた、またプロペラの目方を極端に変えたじゃろ。戸田の狭いコーナーであんな重たいもん振り回したら、外のコンクリート壁に激突するけんな!」
「ありがとう、南野さん。気をつける」
「なっ、なんでそこでまた素直に……調子狂うわ!」
初日、予選第一レース。
光の駆る玄武は三号艇、赤いカポックを纏って水面へと解き放たれた。
スロットルを静かに握り込む。チルト〇・五度――舳先が跳ね上がらない分、艇体がピタリと水面に密着している。チルト三度のような爆発的な浮力はない。だが、己の放つ地脈の質量が、直接水面へとダイレクトにプラグインしていく異様な接地感があった。
スタート――ゼロ。
スリット通過タイミングは、コンマ〇八。
第一ターンマーク。戸田特有のタイトな直角コーナーの最内へ、光は迷うことなくステアリングを叩き込んだ――その瞬間、電子頭脳が確かな解を見出した。
狭い。しかし、その狭さこそが、四方へと分散しようとする地脈の根を、この一点へと極限まで集中させた。
チルト三度は使えない。だが――大地の中心は、ここにある。水面が浮いていない分、鳴門の海底よりも、遥かに地の底が近い。
これだ。
玄武のプロペラが、戸田の高密度な水を薄く、正確に切り抜いた。
遠心力による横流れは一切ない。バックストレッチへと出た瞬間、玄武は他艇を数艇身後ろに置き去りにする、完全なる独走態勢を築き上げていた。
「三号艇・速水光!! 戸田の極狭一マークを完璧に制して単独先頭ォォッ!!」
三周回。チェッカーフラッグが、冬の寒風に激しく翻る。
一着ゴール。
ピットに戻り、ハイドロを引き揚げると、足元でネが低く一声、誇らしげに鳴いた。
あかりがすぐさまノートPCの数値を検証しながら、興奮を隠しきれない声で言った。
『チルト〇・五度でも……地脈のマブイは、完全に水底と繋がってたっすよ!!』
「ああ。戸田は狭い。だがその分、地の底が近い気がする」
数メートル先、モニターの再生映像から目を離した杏奈が、大きく溜め息をついた。
「……あいつ、〇・五度であんな重たい高速ターンを。まるで水面の下に、あいつ専用の『鉄のレール』が最初から敷いてあるみたいじゃ……」
「光くん、明日も全く同じコース、同じ枠番っすよ」
あかりが油のついたタブレットを開き、不敵な笑みを浮かべた。
「今、予選二日目の出走表が出たっす」




