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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第四部 全国記念戦線編

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「再現性——どんな水面でも、寸分の狂いなく大地を刻む」

二〇五二年、十月。

 徳島の山々が微かに色づき始め、鳴門の海から吹き込む風が肌寒くなった頃。


 師匠・香芝大二郎がGⅠ『マスターズチャンピオンシップ』への出場権を獲得し、山口の徳山競艇場へと旅立っていった。


「光。わしがおらん間、鳴門の大地を腐らせるなよ。徳山で誠の走った水面を、わしの《波濤》で塗り替えてくる」


 重厚なマブイを翻して去っていく大二郎の背中を見送りながら、光は一瞬だけ足を止めた。

 徳山――かつて、父・速水誠がその黄金の航跡を刻みつけた、山口のもう一つの水面。父親の足跡が、また一つ霧の向こうに見えた気がした。だが、それだけを骨の底で感じて、光はすぐに無表情のまま歩き出した。


 残された光は、GⅢや記念レースの舞台裏で、ひたすら一般戦の番組(斡旋)を受け続けた。

 今の自分に足りないのは、他を圧倒するような派手な大技ではない――どんな水面であれ、誰が相手であれ、寸分の狂いもなく大地を刻み込む『再現性』だ。それだけが、鳴門の優勝戦で味わったあの圧倒的な六着の重みを、本物の強さへと変える唯一の回路だった。 


 モーニング、デイレース、ナイター。

 光はただ一人で、各地の過酷な水面を渡り歩いた。香川の丸亀、兵庫の尼崎、そして広島・宮島など。若手やベテランの業が入り乱れる、泥臭い消耗戦の戦場に、毎日深く深く沈み込んでいった。


『光くん、今日の丸亀は潮の変わり目と強い向かい風が真っ向からぶつかってるっす。チルト三度は一度封印したほうが……』


「あえて三度で行く。この不安定な足場を、大地に変える訓練が必要だ」 


 数値は、試行錯誤のたびに少しずつ変わっていった。

 スタートタイミング、コンマ一五。一二。一〇――。


 その決定的な瞬間が訪れたのは、丸亀での第五レース、予選特賞の舞台だった。

大時計の針が動く。スタートの瞬間に、何かが明確に変わった。


 チルト三度という極限の設定によって天を突くように跳ね上がろうとする舳先を、魂の目方で前へ――押し出した瞬間、漆黒の玄武が、水面にガチリと『刺さった』のだ。


 艇体は跳ねなかった。浮き上がりもしなかった。ただ、深く、深く、水面の下の断層へとプラグインするように刺さった。

 それだけの感触だった。しかしその密度の高さが、これまでのどのスタートとも決定的に違っていた。

 その日を境に、脳内の電子頭脳が弾き出すスリットの数値は、劇的に書き換わった。コンマ〇七。〇五――。


 師匠がいない孤独なピットで、光は自らの地脈マブイを、より深く、より静かに沈める真の術を学んでいった。

 試運転の最中、杏奈の赤い艇が猛烈な勢いで並走してきた。


「光!! またそんな地味な練習しよんか! あの優勝戦での六着がそんなにショックだったんか!?」 


「ショックじゃない」


 光は暴れるステアリングを冷徹に固定したまま、前を向いて言い返した。


「次は――一ミリも凹まないように、俺の根を削り出しているだけだ」


 杏奈は、ヘルメットの奥で何かを言いかけて、言葉を止めた。


「……そうか」とだけ低く呟いて、スロットルを開けて一気に速度を上げた。彼女の放つ紅蓮の炎が、一瞬だけ静かに凪ぎ――その直後、以前よりもさらに激しく、狂おしく燃え上がっていた。


 山口の徳山から、大きなニュースが届いた。

 師匠・香芝大二郎、マスターズチャンピオンシップ準優勝。鳴門の《波濤》が全国の老雄たちを震わせたというその報せは、留守を預かる光にとって、最高に熱い劇薬となった。


(師匠も、あの重さの中で戦っている。ここで止まってはいられない) 


 十月末、鳴門での一般戦最終日、第十二レースの優勝戦。

 チルト三度の過酷な感覚は、完全に光の肉体へと馴染み、同化していた。まだ完全なる完成ではない。しかし――跳ね上がる舳先を前への推進力へと強硬に寝かせる感覚は、すでに体の一部サーキットと化していた。


 第一ターンマーク。内側の艇が撒き散らした狂暴な引き波の壁を、光は『揺りかご』の形状で完璧に受け止めた。他艇の放った水の圧力が、玄武の船底を通り抜け、そのまま前へと弾け飛ぶための莫大な質量へと変換される。


「一着、二号艇・速水光!! 今節五勝目、圧倒的な強さで一般戦を完全制覇ァァッ!!」


 実況の絶叫が夕闇のスタンドに響き渡る中、光はゆっくりとハンドルを戻した。

 ピットへ帰瀧し、ヘルメットのレシーバーを手に取る。 


「あかりさん。そろそろ、上の舞台に戻る準備をしていいか」


『ふん、言われる前から、玄武の心臓モーターはさらに熱く、上の領域へ設定し直してあるっすよ』


 無線の向こう側で、あかりが少しだけ誇らしげに笑った。

 光もそれにつられるようにして、無表情のまま、わずかに口角を上げた。


「あかりさん、次はどこの水面だ」


 あかりが油にまみれたタブレットを開き、次なる過酷な目的地、あるいは光を自らの深淵へと引き摺り込もうとする他支部からの『招待状(斡旋)』のデータを画面へと映し出した。

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