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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第三部 鳴門激流編

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「六着——敗北の重さも、揺りかごに取り込む」

 号砲が鳴り響いた。

 GⅢ『鳴門金時記念』、ついに迎えた優勝戦。

 スロットルを一瞬で引き絞ったその瞬間――玄武の舳先フロントが、限界を超えて上方へと激しく跳ね上がった。

 チルト三度。覚醒したエースモーターの放つ強大すぎるトルクが、光の地脈の押さえ込む力を完全に凌駕したのだ。一瞬だけ、完璧だったはずの制御が崩れる。


 スリットラインを通過した光のタイミングは、コンマ二二。

 杏奈のコンマ〇九、他艇のコンマ一〇前後という極限の視界の中で、光の青い艇だけがぽっかりと凹んだ形で、スリットの光を通過していった。


「……ッ」


 決定的な出遅れ。

 第一ターンマーク。一号艇の杏奈が、紅蓮のマブイを爆発させて猛烈なイン逃げを打つ。

 光は遅れを取り戻すべく、大二郎の引き波を『揺りかご』の形状で丸ごと受け止めようとした――しかし、大二郎の《波濤》は、今日は昨日までと決定的に違っていた。 


「甘いと言ったはずだ、光!!」


 師匠の放った狂暴な激流が、玄武の船底を真っ向から直撃する。

 揺りかごで受け止めようとしたその凹の形が――逆に、外側からの圧倒的な質量によって圧殺され、押し潰された。


 『揺りかご』とは、相手の力を受け入れることで初めて機能する。だが、今日の大二郎の波濤は、その受け入れる器ごと、光を鳴門の底へと力任せに沈めにきていたのだ。


 たまらずその包囲網から逃れようと、光は進路を外へと向けた。

 だが、その瞬間――足元の水面(足場)が、ドロドロと熱く溶けた。

 勝元麻帆の《溶岩》だ。彼女の執念が、光の地脈の底を執拗に焼き尽くしていた。根が張れない。沈もうと足掻くほど、溶岩の熱がさらに深くまで追いかけてくる。


 ならばと、上へ出ようとした。

 玄武のカウリングの上を、白銀の突風が吹き抜ける。丸山優奈の《風》が、光の背負う重さを完全に消し去った。


 一瞬だけ――艇体が浮いた。

 〈地〉という属性のレーサーが、この世界で最も恐れる『無重力フローティング』の感覚。

 二周目。三周目。

 光は千切れそうなステアリングを握り締め、地の底から足掻き続けた。それでも――牙を剥いた全国のA一級の包囲網の前には、一歩も前へ進むことはできなかった。


「一番、南野杏奈、ゴールイン! 優勝――ッ!!」


 実況の絶叫。掲示板に着順の電光がガチリと映し出される。


 確定。一着・南野杏奈。三着・香芝大二郎。四着・勝元麻帆。

 そして――六着・速水光。


 ピットに戻り、ハイドロ(艇)を引き揚げた。

 光はコクピットに座ったまま、ヘルメットのシールドを上げることがどうしてもできなかった。

 エースモーターを授かり、みんなに支えられ、孤独に夜遅くまで整備室でペラを叩き続けた結果が、これだ。最下位。完全なる大敗。


「……光くん」


 あかりが加工室から走ってきて、そっと玄武のカウルに細い手を置いた。

 光の代わりに――あかりの流した涙が、冷え切った漆黒の鉄の上にポツリと黒いシミを作った。


「……情けないわね」


 聞き馴染んだ声がした。

 杏奈が、光の目の前に立っていた。金色の優勝旗を誇らしげに持ったまま、光のヘルメットの頭頂部にガシッと乱暴に、しかし温かく手を置く。


「何、絶望しとんじゃ。うちに勝とうなんて、百年早かっただけじゃ。……でもな、スタートが凹んだ後のあの追い上げだけは、地の底から這い上がってくる化け物みたいで、ちょっとだけ、本気で怖かったけんな」


「光よ」


 大二郎がカポックを脱ぎながら、地鳴りのような重厚な声を響かせた。


「これが優勝戦の、トップランカーの重みだ。今日食らった六着の目方を、絶対に忘れるな。それをすべて己の血肉に変えた時、お前の地脈は、本当の意味での『不動』に至る」


 光は、ようやくヘルメットを力任せに脱ぎ捨てた。

 六着。

 父・速水誠は――この、胸を圧し潰すような大敗の重さを、知っているのだろうか。

 その問いが、暗い地熱のように静かに湧き上がってきた。地を捨てて空へ逃げたあの男は、この水面で六着の泥を舐めたことがあるのか――それとも、この圧倒的な重さに至る前に、恐怖して逃げ出したのか。


 どちらでもいい、と光は思った。

 ただ今日、速水光はこの凄絶な難水面の底で、六着のまま最後まで踏み留まった。決して、逃げ出しはしなかった。


「この六着の重さ、全部体内に仕舞い込んだ」


 光は煤と油に汚れた顔のまま、前を向いて言い放った。


「大二郎師匠、南野さん――次は、ここで俺が勝つ」


 それは誓いや宣言ではない。回路が導き出した、絶対的な事実の確認だった。

 足元でネが、その魂の目方に応えるように、低く一声だけガルルと鳴いた。

 あかりが涙を乱暴に拭い、再び鋭い目でタブレットを掴む。杏奈が「当然じゃ!」と嬉しそうに拳を突き上げ、大二郎が太い腕を組んで深く頷いた。


 光は立ち上がり、新しい我が家(拠点)へと向かってゆっくりと歩き出した。

 ボートレース鳴門の水面が、真夏の夕日の中で、どこまでも深く、ギラギラとした眩しい橙色に輝き続けていた。

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