「炎と地——鳴門の水面で、二人が並んだ」
GⅢ『鳴門金時記念』五日目。予選最終日、第九レース。
先ほどの前半戦で見事な一着を獲り、優出の片端を掴みかけた光にとって、この後半戦で『二着以内』に入ることだけが絶対条件だった。
「光……。うちもこのレースにいるけんな。手加減なんてしたら、この水面ごと焼き尽くすぞ」
南野杏奈だ。
一号艇、白の勝負服。光は二号艇、黒の勝負服。
『鳴門地脈グループ』の仲間であり、今この瞬間においては、互いの進路を阻む最大のライバルがすぐ隣にいた。
「分かってる」
光は冷徹なトーンのまま、静かに、だが熱く言い返した。
「全力で来てくれ。それが、南野さんの炎に対する礼意だ」
ピット離れのシグナルが鳴り響く。
杏奈の赤い艇が電光石火の旋回でインコースを完全に確保した。光も一歩も引くことなく、その懐へと滑り込み、二コースへ深く潜り込む。
進入隊形は、混戦なしの【一・二・三 / 四・五・六】。
光はスロットルを静かに握り込んだ。水面で何度も互いのマブイをぶつけ合ってきた相手だ――だからこそ、次の一歩が、言葉を介さずとも肌感覚で読める気がしていた。
スタート――ゼロ。
「コンマ〇二、二艇同時スタート!! 並んだ!!」
実況の絶叫が響く。
第一ターンマーク。光が内側から旋回軸を押さえ込もうとした――その瞬間、すでに杏奈はそこにいた。
炎属性の魔戦艇が放つ固有マブイ――『熱で水の抵抗を消す』。
光の地脈が鳴門の底へ根を張るよりも遥かに速く、杏奈は水を白煙ごと焼きながら、驚異的なトップスピードで旋回していた。根が届く前に、一号艇の白いカウルが鋭く差し抜けていく。
「……速い」
光はその美しくも獰猛な背中を追いながら、即座にスロットルを絞り直した。
昨夜完成させた『揺りかご』の形状を展開し、杏奈の放った爆発的な引き波を船底で受け止める。炎が水面を焼き、道を拓く――大地はその焼かれた轍を、超重量で真っ直ぐに踏みしめていく。
二周目、バックストレッチ。
ここで玄武のチルト三度の伸びが爆発した。杏奈の紅蓮の炎と、光の赤茶色の地脈エネルギーが、水面の上で激しく火花を散らして拮抗する。
他艇はすでに数艇身後ろの霧の中に消えていた。完全なる、二人だけのデッドヒート。
最終周回、最終コーナー。
ここだ――光は内側から最短の旋回軸を強硬に押さえにいく。
杏奈の炎が、魂の最後の一絞りを出した。猛烈な熱圧によって水流が激しく弾け飛ぶ。散った海水が光の張る重力の根の外へと逃げ出し、推進力の足場が一瞬だけ浮いた。玄武の旋回軌道が、コンマ数度だけ外側へと押し戻される。
わずかな、本当にわずかなハナ差だった。それだけだ。
だが、ゴールラインの直前で、決定的な半艇身の差がついた。
「一号艇、南野杏奈、一着!! コンマ差で二号艇、速水光、二着!!」
電光掲示板にガチリと確定ランプが灯る。
一着・杏奈。二着・光。
条件クリア――これで、優勝戦進出だ。
父・速水誠は――かつて、この極悪な鳴門の決勝に立ったことがあるのか。
その消えない問いが一瞬だけ脳裏を過り、そして静かに消えていった。
ピットに戻った二人は、カポックを着たまま激しく肩で息を切らせていた。
杏奈はヘルメットを力任せに脱ぎ捨てると、顔を林檎のように真っ赤に上気させて、弾けたように笑った。
「……やったぞ! うちの方が、一歩早かったな!!」
「ああ。完敗だ」
光は手甲で顔の煤を拭い、淡々と言った。
「あの最後の伸び、本気で火傷するかと思った」
「光くん!! 二走とも完璧でしたよ!!」
あかりが加工室から血相を変えて駆け寄ってき、すぐさま玄武の船底とカウリングのログを確認し始める。だが、その華奢な背中は、いつもより少しだけ硬く、張り詰めているように見えた。
大二郎が太い腕を組んだまま歩み寄り、深く、重厚に頷いた。
「だが光、徳島の本当の厳しさは明日からだぞ」
「はい」
光は黒曜石の瞳を真っ直ぐに向け、言い放った。
「鳴門の王座、獲りに行きます」
「明日は、うちが一番にチェッカー受ける。絶対に負けないぞ」
杏奈が不敵に、眩しいほどの笑顔で宣戦布告する。
「俺もだ」
光は静かに答え、足元を見つめた。
「……ネ、明日、全部出し切ろう」
足元でネが、その言葉に応えるように、低く、深く、地鳴りのような一声を鳴らした。
光は再び、阿波の深く暗い夜空を見上げた。
父親への命懸けの問いは、骨の最深部で、消えるどころかさらに黒く巨大に燃え上がっている。
明日、ついに決勝のグリーンシグナルが灯る。父もまた、この孤独な景色の中に立っていたのか――それはまだ、わからない。
ただ、今日よりも遥かに深く、誰も辿り着いたことのない大渦の底があるあの場所へ、俺は明日、また何度でも沈むだけだ。




