「一着——揺りかごの根が、届いた」
GⅢ『鳴門金金記念』五日目。
連日の粘りの走りで、光はなんとか首の皮一枚繋がっていた。
優出のためには、今日二走する予選最終盤のレースで『二着以内』を獲ることが絶対条件だった。
早朝、ピットの出走表を見た光の目が、モーター勝率の欄で止まった。
数字が、昨日までとは明らかに違う顔をしていた。
『光くん! 出力、昨日までとは別次元っすよ! チルト三度の重圧を完全に跳ね除けて、さらに回転が上がってるっす!』
レシーバーからあかりの弾けた声が飛び込んできた。光は短く言った。
「分かった。チャンスは今日だ」
三号艇、赤い勝負服。
ピットシグナルが変わり、玄武が鳴門の水面へと解き放たれた。
進入隊形は、セオリー通りの【一・二・三 / 四・五・六】。光は三コースを主張した。
モーニングの朝日に照らされた眩い水面の下、鳴門の渦潮が重く、不気味に巻いている。光は静かにスロットルを握り込んだ。チルト三度によって天を突くように浮き上がろうとする舳先を、前へ――強硬に押し出す。
襲い来る水を避けるのではない。最初からすべてを包み込む形で、昨夜叩き上げた『揺りかご』のサーキットを全開にした。
大時計の針が激しく回る。スタート――ゼロ。
タイムはコンマ〇五。内側のA1・A2級のベテラン勢よりも、明らかに一歩遅い出だしだった。
だが、玄武のモーターが、覚醒したエースのトルクを伴って異形の加速を開始した。遅かった分だけ、玄武は水面へと深く沈み込んでいた。その沈み込んだ深さこそが――大地のバネとなり、艇を前へと爆発的に弾き出す力になる。
一マーク。先行したA1勢が、万物を圧殺するような引き波の壁を築き上げる。
しかし、光はその壁を避けなかった。斥力で弾くこともしない。真っ向からそのすべてを受け止めた――揺りかごのように。
藤堂たちの放った水の圧力が、玄武の船底を通り抜け、光自身の質量の一部へと滑らかに同化していく。大二郎の言葉が、骨の最深部で地鳴りのように鳴り響いた。
漆黒の玄武が旋回した。内側から最短の軸を押さえる。
光の超重力に巻き込まれたA1勢の旋回軌道が、コンマ数度だけ外へと逃げ、歪んだ。
「抜けた!! 三号艇・速水光、一マークを単独先頭ォォッ!!」
実況の絶叫と共に、視界の先に真っ直ぐなバックストレッチが鮮烈に開けた。
後続の怪物たちが猛烈なマブイを吹き上げて追随してくる。それでも玄武の安定は微塵も揺らぎはしなかった。揺りかごのように、鳴門の水流を丸ごと受け入れながら、水底へと強固な根を張り続けていたからだ。
三周。運命の最終ターンマークを鮮烈にクリアする。 ゴールブイの前を光は1着で通過した。
一着――三号艇・速水光。
父に――あの背中に、これで届いたか。
その問いが一瞬だけ脳裏を過り、そして静かに消えていった。答えなど出ない。まだわからない。ただ――骨の底の問いは激しく燃えている。消えてなどいない。
「……見たか、ネ。俺たちの地脈は、ここにある」
足元でネが、低く一声だけ、了解したように鳴いた。
光は焦げ付いた手で、耳元のレシーバーをそっと手に取った。
「あかりさん、届いた」
しばらくの間、レシーバーの向こう側から何も言葉が返ってこなかった。
駆動音の嵐の中、回線の奥だけが、不自然なほど静寂に包まれる。それから――あかりの声が、鼻をすする音と共に、小さく震えながら届いた。
『……はいっす』
それだけだった。エンジニアとレーサーとして、それ以上の言葉は不要だった。
ピットへ帰瀧すると、最前線で杏奈が弾けたように飛び跳ねていた。
「光ぃぃぃ!! やりおったなこのバカ!!」
大二郎は遠く離れたカポック置き場から、一度だけ、深く頷いてみせた。それだけだった。
光はカポックを脱ぎ、整備台の上の玄武を見つめた。
チルト三度の舳先が、真夏の光を浴びて静かに水面に浮いている。
父・速水誠はこのセッティングを用いて、重力から自由になって空の彼方へと逃げ去った。けれど、息子の俺はまったく同じ出力を抱いて、この鳴門の水面のさらに底、暗黒の深淵へと向かって真っ直ぐに突き進んだ。
どちらの航跡が正しいのかは――まだ、誰にもわからない。
ただ今日、俺たちの根は、確かに鳴門の底へと届いた。
次のレースが始まるまで、光は物言わぬ玄武の漆黒の機体を、ただじっと見つめ続けていた。




