表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第三部 鳴門激流編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/99

「揺りかごの形——構えて作るものじゃない」

 GⅢ『鳴門金時記念』四日目。

 電光掲示板に『四着』の文字が灯った。

 昨日は三着だった。今日は四着だ。前進でも後退でもない――勝負の世界には、確かにそういう日がある。


 三着との差は、わずか数センチのハナ差だった。

 ゴールラインを越えた瞬間、光はヘルメットの中で奥歯を痛むほどに噛み締めた。声は出なかった。ただ、荒い呼吸音だけがコクピットを満たしていた。


『……惜しかったっすよ、光くん。あと少しだった』


 通信デバイスから届いたあかりの声も、悔しさを必死に押し殺していた。

 安易な励ましではない。ただ、あなたの走りを最初から最後まで見ていた、というエンジニアの声だった。


光は無言で玄武を片付け、一人で整備室へと向かった。

 ピットのルールは絶対だ。他者の手は一切借りられない。プロペラと、ただ一人で向き合う――それがこの過酷な水面で、光に課せられた唯一の規律だった。

 キィン――。キィン――。

 静まり返ったピットに、ハンマーの金属音だけが規則正しく響き渡る。


 数台隣のワークエリアで、杏奈が自分のボートを片付けながら、何度もこちらへ視線を向けた。声はかけない。助けることもできない。


 ただ、光の背後に少しずつ、確実に積み上がっていく『重さ』の目方を、彼女は黙って見つめていた。

杏奈の中で、何かが静かに変質していく。


 それは畏怖ではない――もっと燃えなければならない、と己の魂に薪をくべるような激しい焦燥だった。彼女は唇を噛み、自分にそう言い聞かせて、視線を手元へと戻した。


大二郎もまた、一度だけ光のいる方向へ目を向けた。

 だが、すぐに視線を逸らす。手出しはできない。それが今のルールだ。光は手を止めなかった。

 夕闇が整備室の窓を黒く染める頃、光は頭脳の中で『揺りかご』の三次元形状を冷徹に計算していた。

 昨日の三着――あの瞬間、確かに藤堂の引き波を完璧に受け止めた。鳴門の根が届いた、という確かな手応えがあった。しかし今日、なぜ同じことができなかったのか。


 ――波を受け止めようとして、一マークの手前で一瞬だけ「身構えた」からだ。

 揺りかごとは、襲い来る衝撃に対して身構えて作るものではない。身構えた瞬間、マブイの形が固まる。固まれば、水流は反発して逃げていく。


 最初から――激流を受け入れるための柔らかな凹凸サーキットを、プロペラそのものに直接刻み込んでおくべきなのだ。揺りかごとは、敵を待つための戦術ではない。すでにそこに存在する、大地の構造そのもののことだ。


 光はハンマーを限界まで固く握り直した。

 キン。

 短く響いた。打つたびに、次第に金属の鳴る音が変わっていく。


 ミリ単位の打撃に対し、高密度砂鉄を練り込んだ漆黒のブレードがわずかに応える。光の指先は、プロペラが返す『鉄の声』を正確に読み解いていた。

 残された最後のエネルギーを込め、ひと打ちを振り下ろす。


「ドォン――ッ」


 整備室の空気が、一瞬だけ不気味に静まり返った。

 ピットの隙間から流れ込んできた鳴門の重い海流が、万力に固定されたプロペラの静止した翼面のそばで、ふっとその流動のベクトルを変えた。吸い寄せられていく――滑らかに、重く、大地の中心へと吸い込まれていくような、異様な流体変化。


 これだ、と光は直感した。

 光はハンマーを置き、プロペラを水面近くへと傾けて、その微細な流れの変化を観察した。肺の奥から、熱い息をひとつだけ吐き出す。


「あかりさん。明日の第四レース、チルト三度のまま。プロペラは今夜作ったこれを使う」


『……了解っす』


 あかりは一拍のタメを置いてから、通信の向こうで不敵に笑った。


『光くんのその直感、アタシが世界一のセッティングで証明してみせるっすよ』


 宿舎へと戻る夜道、光は一人で鳴門の夜空を見上げた。

 星が少なかった。梅雨の終わりの薄い雲が、一面に広がっている。それでも、世界は暗くはなかった。

 五着、四着、三着、四着。

 軌跡は真っ直ぐじゃない。酷く歪で、でこぼこしている。


 だが、それでいい――地という属性は、空へ向かって真っ直ぐに伸びるより、でこぼこした断層を縫うように、深く深く根を張るものだからだ。

 光はそう思った瞬間、自身の脳細胞に、ほんの少しだけおかしさを覚えた。自分が植物の成長のような感傷を抱いている。


 だが、その計算ロジックは、決して間違ってはいない。

 翌朝。光は静かに、本番の水面を見下ろした。

 鳴門の渦潮が、いつもとまったく変わらない狂暴さで巻いていた。大きく、静かに、止まることなく。

 誰かを待っているわけでも、誰かの挑戦を拒んでいるわけでもない。ただ、星の自転に合せて巻いている。


 まだ、あの本当の底には届いていない。

 だから――今日も、俺は誰よりも深く沈む。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ