「揺りかごの形——構えて作るものじゃない」
GⅢ『鳴門金時記念』四日目。
電光掲示板に『四着』の文字が灯った。
昨日は三着だった。今日は四着だ。前進でも後退でもない――勝負の世界には、確かにそういう日がある。
三着との差は、わずか数センチのハナ差だった。
ゴールラインを越えた瞬間、光はヘルメットの中で奥歯を痛むほどに噛み締めた。声は出なかった。ただ、荒い呼吸音だけがコクピットを満たしていた。
『……惜しかったっすよ、光くん。あと少しだった』
通信デバイスから届いたあかりの声も、悔しさを必死に押し殺していた。
安易な励ましではない。ただ、あなたの走りを最初から最後まで見ていた、というエンジニアの声だった。
光は無言で玄武を片付け、一人で整備室へと向かった。
ピットのルールは絶対だ。他者の手は一切借りられない。プロペラと、ただ一人で向き合う――それがこの過酷な水面で、光に課せられた唯一の規律だった。
キィン――。キィン――。
静まり返ったピットに、ハンマーの金属音だけが規則正しく響き渡る。
数台隣のワークエリアで、杏奈が自分のボートを片付けながら、何度もこちらへ視線を向けた。声はかけない。助けることもできない。
ただ、光の背後に少しずつ、確実に積み上がっていく『重さ』の目方を、彼女は黙って見つめていた。
杏奈の中で、何かが静かに変質していく。
それは畏怖ではない――もっと燃えなければならない、と己の魂に薪をくべるような激しい焦燥だった。彼女は唇を噛み、自分にそう言い聞かせて、視線を手元へと戻した。
大二郎もまた、一度だけ光のいる方向へ目を向けた。
だが、すぐに視線を逸らす。手出しはできない。それが今のルールだ。光は手を止めなかった。
夕闇が整備室の窓を黒く染める頃、光は頭脳の中で『揺りかご』の三次元形状を冷徹に計算していた。
昨日の三着――あの瞬間、確かに藤堂の引き波を完璧に受け止めた。鳴門の根が届いた、という確かな手応えがあった。しかし今日、なぜ同じことができなかったのか。
――波を受け止めようとして、一マークの手前で一瞬だけ「身構えた」からだ。
揺りかごとは、襲い来る衝撃に対して身構えて作るものではない。身構えた瞬間、マブイの形が固まる。固まれば、水流は反発して逃げていく。
最初から――激流を受け入れるための柔らかな凹凸を、プロペラそのものに直接刻み込んでおくべきなのだ。揺りかごとは、敵を待つための戦術ではない。すでにそこに存在する、大地の構造そのもののことだ。
光はハンマーを限界まで固く握り直した。
キン。
短く響いた。打つたびに、次第に金属の鳴る音が変わっていく。
ミリ単位の打撃に対し、高密度砂鉄を練り込んだ漆黒のブレードがわずかに応える。光の指先は、プロペラが返す『鉄の声』を正確に読み解いていた。
残された最後のエネルギーを込め、ひと打ちを振り下ろす。
「ドォン――ッ」
整備室の空気が、一瞬だけ不気味に静まり返った。
ピットの隙間から流れ込んできた鳴門の重い海流が、万力に固定されたプロペラの静止した翼面のそばで、ふっとその流動のベクトルを変えた。吸い寄せられていく――滑らかに、重く、大地の中心へと吸い込まれていくような、異様な流体変化。
これだ、と光は直感した。
光はハンマーを置き、プロペラを水面近くへと傾けて、その微細な流れの変化を観察した。肺の奥から、熱い息をひとつだけ吐き出す。
「あかりさん。明日の第四レース、チルト三度のまま。プロペラは今夜作ったこれを使う」
『……了解っす』
あかりは一拍のタメを置いてから、通信の向こうで不敵に笑った。
『光くんのその直感、アタシが世界一のセッティングで証明してみせるっすよ』
宿舎へと戻る夜道、光は一人で鳴門の夜空を見上げた。
星が少なかった。梅雨の終わりの薄い雲が、一面に広がっている。それでも、世界は暗くはなかった。
五着、四着、三着、四着。
軌跡は真っ直ぐじゃない。酷く歪で、でこぼこしている。
だが、それでいい――地という属性は、空へ向かって真っ直ぐに伸びるより、でこぼこした断層を縫うように、深く深く根を張るものだからだ。
光はそう思った瞬間、自身の脳細胞に、ほんの少しだけおかしさを覚えた。自分が植物の成長のような感傷を抱いている。
だが、その計算は、決して間違ってはいない。
翌朝。光は静かに、本番の水面を見下ろした。
鳴門の渦潮が、いつもとまったく変わらない狂暴さで巻いていた。大きく、静かに、止まることなく。
誰かを待っているわけでも、誰かの挑戦を拒んでいるわけでもない。ただ、星の自転に合せて巻いている。
まだ、あの本当の底には届いていない。
だから――今日も、俺は誰よりも深く沈む。




