「一ミリ——今日の鳴門の底は、昨日より深かった」
GⅢ『鳴門金時記念』二日目、第八レース――四着。
カポックを脱ぎ、額の汗を拭いながら、光はA1レーサーたちの残した旋回軌道を見つめていた。
彼らは光の強烈な伸びを察知するや、コーナーで絶妙に自らの航跡を重ね、玄武の差し場を完全に封じ込めた。
重さがある。それは知っていた。しかし、トップランカーたちの操る『水』は、光の超重力をしなやかに受け流したのだ。岩に当たって砕けるのではない――砂に吸い込まれるように、冷徹に質量を殺された。
レース後、光はすぐに玄武を整備台へと上げた。
開催期間中のレーサー間における整備の補助は、番組規則によって厳格に禁止されている。当然、外部メカニックであるあかりがピットの作業エリアに立ち入ることも、大二郎や杏奈が光のエンジンに触れることも許されない。工具の貸し借りすらも違反となる。
野田あかりにできるのは、ピット外のワークエリアから、暗号化された通信デバイス越しにログデータを送ることだけだった。
光は、ただ一人で鉄の塊と向き合った。
『光くん、聞こえるっすか。一マークでの機首の跳ねが、昨日より〇・二秒長くなってるっす。地脈の抑え込みが、チルト三度の反発に完全に負けてる証拠っすよ』
あかりの焦燥を孕んだ声が、レシーバーを通じて鼓膜に届く。
「わかっている」
光は冷徹な声のまま、小型ハンマーを握り直した。
「プロペラの翼端を、もう少し重く叩く」
キン――。キン――。キン――。
静まり返った整備室に、ハンマーの金属音が虚しく響き渡る。
周囲のレーサーたちが談笑しながら次々と作業を終えて宿舎へと引き揚げていく中、光だけがいつまでも、一六三センチの背中を丸めてブレードを叩き続けていた。
数メートル先で、大二郎が自らのボートを黙々と片付けていた。手出しはできない。大二郎は一度だけ光に鋭い視線を向けたが、何も言わなかった。
光は手を止めなかった。ただ、少しだけ呼吸が深くなる。
杏奈は、何度も振り返っていた。
「……あいつ、また一人で根詰めて」
声にはならなかった。だが、彼女の指先からチリチリと漏れ出た焦燥の火花が、自身のカウリングの油膜をパチパチと小さく爆発させていた。
整備終了の締め切り時間が、目前に迫っていた。
マブイの過剰使用により、光の指先は感覚を失って痺れ始めている。オイルと金属粉で真っ黒になった手の中で、ハンマーの柄が滑る。あと一撃が出ない――という、その瞬間。
耳元のレシーバーが、じわりと温かくなった。
あかりが、まだモニターの前でデータを見つめ、祈るように回線を繋ぎ続けている。
親父に、あの絶対の航跡に届かせるために、もう一度――。
光は、残されたすべてのマブイを乗せて、最後のハンマーを振り下ろした。
「ドォン――ッ」
整備室の空気が、一瞬だけ物理的に沈み込んだ。
数メートル先にある大二郎と杏奈の艇が、ミシ、と不気味に共鳴して鳴る。万力に固定されたプロペラの翼端が、夕闇の中で鈍く重い赤茶色の光を放っていた。
「……あかりさん。これで明日は、違う」
『……期待してるっすよ。でも、絶対に無理は禁物っす』
宿舎へと戻る夜道、光は阿波の黒い夜空を見上げた。
一着を獲る、と光は静かに思った。徳島のみんなに。山口の親父に。俺の地脈が届く、その最深部まで――。
翌朝。予選最終日、第八レース。
光の駆る玄武は二号艇、黒の勝負服を纏って水面へと降りた。
スロットルを握り込んだ瞬間、昨夜の居残りで叩き込んだ圧倒的な『重さ』が、足の裏から骨髄へと真っ直ぐに伝わってきた。低く、深く、鳴門の水底へと直接プラグインするような超重振動だ。
「行くぞ、ネ」
はるか遠くから、相棒の声が響いた気がした。低く、短く、王の覚醒を促す一声。
スタート、タイムコンマ〇〇――ジャストスリット。
光はあえて定番の二コースに潜り込まず、スリット後に外へと機首を持ち出した。一号艇・藤堂の凄絶な引き波が襲いかかる。昨日、玄武をハメ殺した『水の侵食』だ。
しかし、今日の光はその水を避けなかった。斥力で弾きもしない。真っ向から、そのすべてを受け止めた。揺りかごのように――藤堂の放った水の圧力を、自らの質量の一部として強硬に抱き抱えていく。
(揺りかごだ)
大二郎の言葉が、骨の奥底で鳴り響いた。
第一ターンマーク。光は内側から旋回軸の最短を完全に押さえ込んだ。
藤堂の水マブイが絡みついてくる。しかし、昨日と決定的に違うのは、絡みついた水そのものが、玄武を支える『根』へと強制変換されていることだった。相手の侵食の力が、深さという名の安定に変わる。
漆黒の玄武が、水底へと沈み込みながら――地のバネを爆発させて前方へと弾き出された。
コンマ数ミリの肉薄。
激しいストレートの鬩ぎ合いの末、チェッカーブイが通り過ぎる。
掲示板にガチリと電光が映し出された。
『二号艇・速水光・三着』
一着ではない。しかし、昨日の四着でも五着でもない。
「……一ミリ、削れた」
光はスロットルからゆっくりと手を離した。
足の裏には、大村の高密度水圧とは全く違う、鳴門の渦の底にある複雑な断層の圧力が、確かな生命の鼓動として脈打っていた。まだそのすべてを読み解けてはいない。ただ――今日、初めて鳴門の底に、自分の根が届いた気がした。
ピットへ戻ると、杏奈が「三着!!」と弾けたように飛び上がった。
あかりの回線から『やったっすよ光くん!!』という絶叫がノイズ混じりに響く。大二郎は遠く離れたカポック置き場から、一度だけ、深く頷いてみせた。
光は前を向いたまま、ヘルメットを脱いだ。
親父に、あの背中に届いたか――それはまだ、わからない。
ただ、今日、光が足の裏で触れた鳴門の底は、昨日よりも遥かに、深く、そして頑強だった。




