「揺りかご——地は、万物を包み込む」
鳴門の電光掲示板に、非情な数字が灯った。
『四号艇・速水光、五着』
大時計の針と完全に同調し、タイムコンマ〇〇の極限スリットを刻んだはずだった。スタートの伸びも、他を圧倒していた。
だが――最初の一マーク。鳴門を熟知するA1レーサーたちは、光の過剰な重さと直線の伸びを瞬時に見切り、その旋回初期のわずかなバウンドを引き波の底へとハメ殺したのだ。
影すら踏ませてもらえない、圧倒的な実力差。それが鳴門の洗礼だった。
ピットへ帰瀧し、カポックのファスナーを引き下げながら、光は奥歯が痛むほど噛み締めた。
親父もここで、こんな壁にぶつかったのか。それとも、この怪物たちの圧に揉み潰される前に、ここから逃げ出したのか。その問いが一瞬だけ脳裏を過り、すぐに消えた。
「光くん! モーターが回りすぎっす! 今の玄武は、制御を失って水面を跳ねるだけの石ころになってるっすよ!」
ボートを引き揚げるなり、あかりが加工室から血相を変えて駆け寄ってきた。
「何しよんじゃ、この大バカタレがぁぁぁ!!」
続けて突進してきたのは杏奈だ。怒髪天を衝く勢いで光の胸ぐらを掴む。
彼女の指先から、激情のままに透明な炎のマブイが伝わってきた。光の体内の地脈がそれを無意識に受け止め、二人の間でパチパチと白煙が上がる。
「あいつらは岩なんかじゃない、鳴門の重い水そのものじゃ! 柔らかくあんたの質量を受け流して、底に沈めにくる生き物じゃけぇ! 真正面から強さだけをぶつけるのが『地』の戦い方なわけなかろうが!!」
「……水そのもの」
光が杏奈の言葉を反芻した、その時だった。
いつの間にか背後に立っていた大二郎が、光の肩へ軽く手を伸ばした。
大二郎の無骨な掌が触れた瞬間、光の体内で暴れていた地脈の乱れが、嘘のように凪いだ。高回転のモーターのように震えていた神経の振動が、地底の奥深くへと吸い込まれるように収まっていく。
「……これが、師匠の」
「揺りかごだ」
大二郎は静かに、だが地鳴りのような重低音で言った。
「地とは、ただ頑固に動かない不動の盾ではない。万物の命をその背に包み込み、育む『揺りかご』だ。真の不動とはな、光。相手の水の圧力すらも、己の質量の一部として抱き抱え、推進力に変えることを言う。今のままじゃ、チルト三度の角度にお前自身の器が負けとるぞ」
「相手の力を……自分の質量に、取り込む……」
大二郎はそれだけ言い残すと、背を向けて去っていった。
ピットに冷たい潮風が吹き抜ける。光は己の掌を見つめ、それからあかりを見た。その瞳には、敗北の陰りなど微塵も残っていなかった。
「あかりさん。プロペラを、もう一回叩き直してくれ。エンジンの回りすぎを抑えるんじゃない。――あの過剰な爆発力を、超低周波で水面を揺らす振動に変える。世界一、重いセッティングにしてほしい」
「了解っす」
あかりは一秒、光の冷徹な、だが確信に満ちた目を凝視した。それから不敵に微笑み、ゴツいハンマーを握り直した。
「誰の引き波にも絶対に屈しない、世界一粘り強いプロペラ、仕上げるっすよ」
カンッ!! カンッ!! ――
加工室の奥から、再び鉄を叩く高い音が響き渡り始めた。
*
モーニングの青かった太陽が中天を巡り、鳴門の水面が夕暮れの赤茶色へとその輝きを変える頃。
第二日目、第八レース。本日二回目の出走となる光は、再びハイドロ(艇)を水面へ降ろした。
潮位は昼間よりもさらに増し、鳴門の激流は牙を剥いている。だが、今の光に焦りはなかった。
あかりが叩き上げた新たなプロペラは、唸りを上げるモーターの暴威を吸い込み、艇全体に信じがたいほどの「超重の安定」をもたらしていた。ボートが水面に触れているというより、水面そのものを地盤として縫い止めているかのような感覚。
スロットルレバーを握る光の手に、足元からズシリとした確かな質量が伝わってきた。ネの、あの容赦のない重さだ。
暗い水底から、ネの一声が遠く響いた気がした。
「藤堂さん。大二郎師匠の言った『地の真実』を……今度は俺が、水の上で確かめる」
対戦相手のA1レーサーたちが待つピットアウトのシグナルを見据え、光は力強くスロットルを握り込んだ。




