『四カドの重力波(グラビティ・スリット)』
全国から最高峰のA1レーサーたちが集結した、鳴門G3『鳴門金時杯』。
その高すぎる壁の洗礼を、移籍したばかりのB1レーサー・速水光は、初日から全身に浴びることになった。
初日のリザルトは、四着、五着。
大村での華々しいデビューとは裏腹に、中位に沈み続ける苦境の一日だった。だが、一度も最下位である六着を叩かなかった。そして同時に、一着も捥ぎ取れなかった。
ピット裏のベテランレーサーたちは、その一見すれば凡庸な数字を、不気味なほどの静寂で見つめていた。誰も鼻で笑う者はいなかった。笑えない『何か』が、あの黒いカウルの『玄武』にはあったからだ。
大敗をしない。どんな泥仕合の引き波に揉まれても、光の艇だけは、水底に磁石で吸い付いているかのように奇妙な安定を保ち続けていた。
全レースが終了し、夕暮れの整備場が閉鎖されようとする間際。
第六整備室の片隅で、あかりがノートPCのモニターに表示された波形データへ、突き刺すような鋭い視線を落としていた。
光は無言でその隣に立ち、万力に固定されたプロペラを見つめている。金属の削り屑が床に落ちるかすかな音さえ響きそうなほど、二人は沈黙していた。
「光くん、明日の第五レースは、ちょうど早朝からの潮汐で一気に潮位が跳ね上がる時間帯っす。鳴門本来の激流に加えて、この高潮……。チルト三度の『跳ね馬設定』のままだと、一マークでの横流れG(重力加速度)は今日の比じゃないっすよ。遠心力で外のコンクリート壁に激突するっす」
「わかっている」
光は冷徹な声で言った。
「だから、プロペラの返しの角度を、もう一ミリだけ深く叩き直してほしい。出力を殺して安全に回るんじゃない。――あの過剰な推進力をすべて、水面を強引に掴み取る『爪』に変えるんだ」
あかりは何も言わず、ゴツい金属製のハンマーを手に取った。
キィィィン、キィィィン――。
夕闇迫る整備室に、高い金属音が規則正しく響き渡る。
ミリ単位、いやミクロン単位で金属を叩き直す彼女の正確なスイングの中に、どんな言葉よりも純度の高い、光への信頼と執念が宿っていた。
――その夜、外部との接触を断たれた深夜の選手宿舎。
ベッドに横たわった光の脳裏では、今日戦ったA1レーサーたちの完璧な旋回軌道が、電子回路のように幾度も再生されていた。
(親父も……速水誠も、かつてここで同じ凶悪な波に揉まれたのか。それとも、この圧に揉み潰される前に、ここから逃げ出したのか)
暗闇の中で、その問いが浮かんでは消える。だが、その弱音を塗りつぶすように、地脈の底から別の声が響いた。
『地は、不動。だが、不動とは止まることではない。誰の引き波にも動じず、誰よりも深く、勝利への最短ルートを水面に直接刻み込むということだ』
ふと、足元にズシリとした質量が加わった。
いつの間にかベッドに上がってきたネが、その太い四肢を光の足元に乗せてきたのだ。重い。だが、その容赦のない重さが、今は妙に心地よかった。ただそこにある絶対的な質量が、光の焦る思考を現実へと繋ぎ止めてくれる。
深い、泥のような眠りが光を包み込んでいった。
翌朝、午前十時。
朝一番の静寂を破り、鳴門の水面は急速にその表情を変えつつあった。満ち潮が激流とぶつかり合い、湧き上がるようなうねりが白く泡立っている。
第二日目、第五レース。光の駆る『玄武』は四号艇、青の勝負服だ。
ピットで艇の最終チェックをしていた光の背後に、すっと巨大な影が落ちた。
「おっ、速水。昨日の夕方、随分と遅くまでペラをカンカン叩いてたらしいじゃないか。新人が熱心なのは結構だが、鳴門の波は努力だけで割れるほど甘かないぞ?」
声をかけてきたのは、一号艇に座る藤堂玄一。鳴門を我が庭とする、誰もが認めるA1トップランカーだ。
光は答えず、足元のコンクリート床を見た。わずかに湿っている。いや、違う。水がじわりと、下から滲み出てきているのだ。
(……藤堂のマブイか)
彼がそこに立っているだけで、周囲の空間に『水』の属性のエネルギーが無意識に浸透している。掴みどころのない、じわじわと足元をすくうような侵食のプレッシャー。
「……ええ」
光は視線を藤堂の琥珀色の瞳へと移し、表情一つ変えずに言い放った。
「おかげさまで、今日の玄武の爪は、昨日よりも深くあんたの引き波に刺さります。切り裂いて、前に出る」
藤堂の口角が、愉しげに、そして傲慢に跳ね上がった。彼は何も言わず、不敵な笑みを残して自らの艇へと向かった。
「光ぃぃぃ!! 行けェェェ!! 今日こそ一着獲らんと承知せんけぇな!! A1の壁がなんぼのもんじゃ、うちも横でしっかり見届けたる!!」
ピットの最前線から、エンジン音の爆音を突き破って杏奈の絶叫が届いた。彼女の放つ燃えるような炎のマブイが、冷え切った朝の空気を一瞬で熱する。
光は前を向いた。ヘルメットのシールドをカチリと下ろす。
「行くぞ、ネ。俺たちの本当の大地がどこにあるか、この水面で証明する」
ファンファーレが鳴り響き、六艇が一斉にピットアウトした。
激しい牽制の末、進入隊形はセオリー通りの【一・二・三 / 四・五・六】。光が選んだのは、四コースのダッシュ戦――いわゆる『四カド』だ。
一号艇・藤堂の真後ろから、一気に外へ持ち出して全速で絞り込む、まくりの最前線。
だが、光の狙いはただの「まくり」ではない。外から被せるのではない。外から誰よりも深く沈み込み、水底に巨大な根を張るためのポジションだ。
助走距離をたっぷりと取った玄武が、スリットに向けて猛然と加速を開始する。
光は体内の地脈エネルギーを全開にした。
チルト三度という極限の傾斜により、風を孕んで浮き上がろうとする舳先の浮力を、己の超重力で強引に抑え込み、すべて『前への推進力』へと変換する。
かつて大村の海で、恐れからスロットルを戻してしまったあの苦い記憶が、今、最高のサンプルデータとして脳内で同期していた。もう、右手は弛まない。
「ドッバゴォン――ッ!!」
玄武の船底から、赤茶色の重力波動が走った。
冷たく濃密な空気を吸い込んだモーターが、昨日とは完全に一線を画す獣のような咆哮を上げる。鳴門の激しい高潮が――玄武の進路の真前だけ、重力の圧力によって一瞬にして平らに凪いだ。
『大時計の針が動く! スタートまで、あと三秒……二秒……!』
実況の絶叫。
大村で刻んだコンマ〇〇秒の絶対的な時間の感覚が、光の網膜の裏側で完全に狂いなくトレースされる。
足の裏には、鳴門の地鳴りのような鼓動。親父がかつて見たかもしれない景色。藤堂の水マブイが侵食する水面。
そして、あかりが一夜をかけて叩き上げてくれた、鋭利なプロペラの爪。
すべてを乗せて、青い艇が弾け飛んだ。
スリット通過。
全速――タイム、ジャスト『コンマ〇〇』。
鳴門のスタンドが、一瞬にして静まり返った。




