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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第三部 鳴門激流編

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『拠点の磁場(グラビティベース)』


 朝、這うようにして辿り着いた鳴門競艇場のピットでは、案の定、冷徹な現実が光を待っていた。

 整備室の冷たい蛍光灯の下でモーターを弄るあかりの視線は、鳴門の渦潮よりも冷たく、そして深かった。光が何かを弁明しようとする前に、彼女は視線を一切上げぬまま一言、「午前中の試運転、全速旋回モンキー三十本。一秒でも遅れたら今持ってるペラのゲージ、全部スクラップにして叩き直すから」とだけ言い放った。

 光の超重力グラビティをもってしても、あの瞬間のあかりの背負う「沈黙の質量」には抗えなかった。午前中の水面は、文字通り地の底を引きずり回されるような地獄の猛特訓となった。  


 ――そして、午後。

 へとへとになった身体に鞭を打ち、光は下関から連れてきた老犬ネと共に、徳島市内の不動産屋を回っていた。いつまでも杏奈のマンションに転がり込んでいるわけにもいかず、かといって宿舎やガレージの仮住まいでは、鳴門で本格的にチルト三度の特訓に打ち込むための機密が保てない。文字通りの「拠点」を探す必要があったのだ。


 だが、鳴門の現実は、想像以上に厳格だった。

 ネを連れて不動産屋の自動ドアをくぐるたびに、彼が内包する神秘的なマブイ生命体としての質量が空間の磁場を狂わせ、卓上電卓の液晶をデタラメに文字化けさせ、壁のエアコンの室外機を悲鳴のように鳴かせた。 


「大型犬不可」の冷淡な張り紙がある物件が三軒。

「聖獣・マブイ生命体お断り」という、異能が混在するこの世界ならではの露骨な偏見を出した不動産屋が一軒。


 人間の社会制度というものは、規格外の存在に対してどこまでも冷淡にできている。


「……すまないな、ネ」


 路地裏の木陰で、光がその漆黒の肉球をもつ太い脚に触れると、ネは文句を言う代わりに、細めた琥珀色の目で光をじっと見つめ返した。その瞳は「気にするな」とでも言いたげだった。


 諦めかけた五軒目。徳島駅近くの、少し古いビルが立ち並ぶ市街地だった。

 目的の古い物件の前へ差し掛かった瞬間、ネがピタリと足を止めた。


 同時に光もまた、自らの足の裏を通じて、奇妙な感覚を察知した。コンクリートを突き抜けてじわりと伝わってくる、強固な抵抗感。この建物の底には、一本の歪みもない鉄骨の芯が、地球の重力線と真っ直ぐに重なって通っている。


 周囲の密集したビルや変質した地盤から発せられる、複数の方向からの「重さ」が、この一点に見事な幾何学的均衡を持って集まっていた。地球の重さが、一切の雑味なく、真っ直ぐに届く場所だ。


「……ここか」


 光が呟く。ネはすでに、光の言葉を待つまでもなく、我が物顔でエントランスの自動ドアへ向かっていた。

 地元の大手不動産屋の老オーナーは、光の顔を見るなり、眼鏡をずらして目を見開いた。


「おい、あんた……速水誠の息子か! 瓜二つじゃないか。誠さんには昔、阿波の記念レースで随分と美味い汁を吸わせてもらったんでな。あの『不沈のグラビティ』の系譜なら大歓迎だ」


 かつてこの地を沸かせた天才レーサーである父の遺産。オーナーは快く、建物の最上階にある日当たりの良い一室を、格安で空けてくれた。

 長い廊下を歩きながら、光は少しだけ足を止めた。

 父の名前で、この街に根を張る。自分自身の力ではなく、かつての偉人の影を利用して――。


(それでいいのか)という、機械的な電子頭脳から生じた一瞬の問いが、胸の奥で小さな火花のように灯った。だが、その感傷が回路を焼き切る前に、光は無表情のまま歩き出した。今はただ、強くなるための場所が必要だった。 


 部屋に入り、何もないフローリングの床にそっと手を触れた。

 やはり、間違いない。足の裏、そして手のひらから、地球の核へと続く重さがダイレクトに届く。鉄骨の芯が、鳴門の大地と真っ直ぐに繋がっている。


「響く。ここは、いい場所だ。俺のマブイを安定させる」


 ネも満足げにフンスと鼻を鳴らし、リビングの真ん中にその巨躯を横たえた。銀狼の毛並みが、夕日に照らされて鈍く輝く。


「……これでようやく、腰を据えてチルト三度の特訓に打ち込める。あの跳ね馬を御すための計算が始められる」


 静寂が部屋を満たそうとしたその時、ポケットのスマートフォンが、まるで爆発でもしたかのように激しく震えた。液晶画面には「南野杏奈」の四文字が不穏に明滅している。

 嫌な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、鼓膜を容赦なく揺らす悪びれない大声が響いた。


『光! 部屋決まったんか! 徳島駅の近くって――ちょっと、遠いやん! うちのマンションから自転車で全速力で漕がんと行けん距離やないか!』


「……なぜ俺が今さっき契約したばかりの場所を知っている」


『大ちゃんから全部聞いたわ! あのオヤジ、不動産屋のオーナーと飲み仲間じゃけぇな。耳が早すぎるんよ! 引っ越し祝いじゃ、今から阿波尾鶏の焼き鳥、山ほど持ってその部屋に突撃してやるけぇな!』


「断る。まだ片付けの最中で、人を迎える状態では――」 


『五分で着くけぇ、黙って待っとれバカ!!』


 ツー、ツー、と冷淡な切断音が響いた。光は耳からスマートフォンを離し、画面を見つめた。

 徳島に来てから、どういうわけか、自分のシステムから排出される「溜息」の数が増えている。明らかに異常エラーを検知している。だが――その正確な内部ログは、どれだけ脳内の数式を回しても導き出せなかった。 


「……ネ。徳島の大地は、山口の静かな海よりも、ずっと騒がしくて熱いな」


 ネは光の足元にゆっくりと歩み寄り、その大きな体をぴたりと寄せた。

 トク、トク、と深く力強い鼓動が、光の皮膚に伝わってくる。確かな体温があった。神秘的な銀狼が持つ、最も泥臭く、最も日常的な重さ。それが、光の乱れた磁場をそっと凪いでいく。


 その時、静かな部屋にピンポーン、とけたたましくインターホンが鳴り響いた。

 ドアの向こうから、杏奈が焼き鳥の袋を両手に抱えて、息を切らしながら立っているのが分かった。彼女の持つ「炎のマブイ」の圧倒的な熱圧が、ぶ厚い鉄扉を透過してジンジンと光の皮膚を刺激してくる。


 さっきの電話から、正確に四分五十八秒。「五分」という彼女の予測値は、寸分の狂いもなく確かだった。


「来い、南野さん」


 光は小さく呟き、ドアノブに手をかけた。

 足元で、ネが嬉しそうに一度だけ尾を揺らした。そのわずかな空気の振動だけで、光の冷徹な唇の端が、ほんの少しだけ緩んだ。光は迷わず、新しい我が家のドアを大きく開け放った。

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