『大地の引力、炎の洗礼』
香芝大二郎の提案した「弟子入り歓迎会」は、なぜか南野杏奈のマンションの一室で行われることになった。
師匠の自宅でも、競艇場の宿舎でもなく――。
「杏奈の作る飯が支部で一番うまい。それに尽きる」
という大二郎の豪快な一言で、有無を言わさず決定したのだ。当の杏奈は、
「大ちゃんがそう言うんなら、しゃあないのぉ!」
と口では膨れっ面をしながらも、結局は夜中まで台所で腕を振るい、豪勢な手料理を次々とテーブルに並べていた。
そこからの記憶がひどく曖昧だった。
光は大二郎の放つ《波濤》の如き圧倒的な圧力で地酒を飲まされ続け、マブイのサーキットが過熱を起こして機能停止。文字通り、意識が奈落の底へと深く深く沈み込んでいった。
翌朝。
割れるような頭痛と共に、光の意識がゆっくりと覚醒の海へと浮上した。
最初に鼻腔を揺らしたのは、いつものガレージの無骨なオイルの匂いではなく、夏の百合のような淡く甘い香りだった。見慣れない白い天井。遮光カーテンの隙間から、容赦のない真夏の朝光が鋭く差し込んでいる。
光はひどく重い首を、ゆっくりと横に向けた。
その瞬間、心臓が物理的に止まるかと思った。
いつものように傍らで眠るネの毛並みに触れようとした光の目に飛び込んできたのは、銀色の毛皮ではなく、シーツに散らばる鮮やかな髪――南野杏奈が、すぐ隣で無防備に眠っていたのだ。
一六八センチのスラリとした長い四肢がベッドの上で丸くなっている。自分より五センチ高い体躯が、光のすぐ真横で、静かな寝息を立てていた。
ドクン、と光の地脈が激しく乱れた。完全に無意識の動揺だった。
光の体から発せられた局所的な超重力により、頑丈なマットレスが光の身体を中心にして、ズズズ……と数センチメートル不気味に沈み込んだ。ベッドが急激に傾斜し、その重力の坂道に沿って、杏奈のしなやかな脚がフワリと光の方へと滑り落ちそうになった、まさにその刹那――。
カッ、と彼女の琥珀色の瞳が至近距離で見開かれた。
杏奈は弾かれたように起き上がり、本の本能的に枕を引っ掴んだ。全力で投げつけようとして――しかし、寸前で動きを止めた。
隣にいる光が、昨夜とまったく変わらない無表情のまま、じっとこちらを見つめ返していたからだ。
激しい沈黙が、一瞬だけ部屋を満たした。その直後。
「ぎゃあああああああ!!!!」
鼓膜を叩き割るような絶叫と共に、手加減なしの枕が音速で飛んできた。
光の顔面にジャストミートし、鈍い衝撃音が室内に響く。同時に、彼女の体内から漏れ出た爆発的な炎のマブイにより、部屋のエアコンが熱圧の限界を迎えてプシューと白い悲鳴を上げた。
「あんた!! なんでうちのベッドで平然と寝とるんじゃバカ! 変態! 最低のバケモノ!!」
「知らない! それは俺が一番聞きたい! 痛っ、待て、二個目のクッションを振り上げるな!」
「ぶち殺す……って、あ、あぁっ」
追撃のクッションを頭上に振り上げた姿勢のまま、杏奈の動きがピタリと凍りついた。彼女の脳内に、昨夜の決定的な記憶が鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
完全に酔い潰れた光が「部屋の番号が……底へ沈んでいく……」と虚空を睨んで呟き、彼女の衣服の袖を文字通り地球の引力のような力で掴み、絶対に離さなかったあの光景を。
「あんたが……あんたのそのバカ力が、うちの袖を掴んで絶対に離さんかったんじゃけぇな!! だから仕方なくベッドに放り込んで、うちはその横で監視しとったら、いつの間にか寝てしもて……っ!」
「……そうだったのか。すまなかった」
光は顔面の枕を退け、静かに頭を下げた。
地の属性が持つ圧倒的な『引き込み力』が、水上を離れた陸の上で、まさかこれ以上ない最悪の形で発動していようとは。
部屋の隅のフローリングでは、いつの間にか起きていた老犬ネが、眠そうに目を細めていた。
主人の滅多に見られない丑態を特等席で完全に鑑賞し、ふぁあ、とあくびを噛み殺して尻尾を一度だけ床に打ち付けている。
「とにかく! 起きたんならさっさとこの部屋から出てけ! 万が一、あかりさんに変な誤解でもされたら――」
杏奈は顔を真っ赤にしながら、クッションで顔を半分隠して叫んだ。
「わかった」
光は乱れた衣服を冷徹な手つきで整え、小脇にヘルメットを抱えた。スリッパを履き、玄関へと続くドアノブに手をかける。
最後に、ふと振り返って言った。
「……南野さん」
「な、なによ、まだ何かあるん」
「南野さんの寝顔、普段と違って意外と静かだったぞ。炎が消えていた」
杏奈の顔が、今度は限界を超えて耳の裏まで沸騰するように真っ赤に染まった。
「う、う、うるっっっっさいわぁぁぁぁ!!!!」
今度は枕ではなく、金属製の目覚まし時計が正確無比な音速の弾道で飛んできた。
光はそれを卓越したレーサーの本能で間一髪背中でかわし、滑り込むようにして杏奈のマンションの部屋を飛び出した。
外へ出ると、朝の鳴門の荒々しい潮風が、火照った顔に激しく吹きつけてきた。冷たい風が頭痛を少しだけ和らげてくれる。
だが、この後ガレージで待っているあかりの顔をまともに見た時、一体自分は何から説明すればいいのか、光の電子頭脳をもってしてもまったく答えが出なかった。
足元で、ネがクンと短く鳴いて先に歩き出した。その背中は、どこか楽しげに揺れている。
光は何も言わず、ただ相棒の頑丈な背中を追って、朝靄に包まれる鳴門の水面へと歩みを進めた。




