『鳴門地脈グループ結成』
香芝大二郎の放った《波濤》の前に、速水光は一度、完膚なきまでに弾き飛ばされた。
それが、徳島へと移籍してきて最初に味わった明確な「負け」の味だった。大二郎の操る凄絶な引き波の質量は、玄武の張り巡らせた地脈の根をただ揺さぶるのではない――根そのものを、海底の岩盤から根こそぎ強引に引き剥がしたのだ。水面の底を強固な足場にしようと潜り込んだ瞬間、大二郎の激流がその「底」の概念そのものを力任せにひっくり返した。光の艇体は鳴門の荒れる海面へと無残に叩きつけられ、漆黒の玄武が完全に停止するまで、光には何もすることができなかった。
その夜。光は静まり返ったピット裏のガレージへと赴き、作業灯の下にいる大二郎の前に真っ直ぐに立った。大二郎は長机で黙々とプロペラを磨いていた。光の重い足音を察知しても、その分厚い手を止めることはなかった。
「……香芝さん。俺を、あなたの弟子にしてください」
大二郎の動きが止まった。やすりを置き、ゆっくりと顔を上げる。
光は黒曜石の瞳で、その老雄の眼光を射抜くように見つめた。
「あなたは親父の時代を知っている。親父がこの鳴門の水面で一体何を見つけたのか――あなたの放つ《波濤》の底には、その消えない答えの断片があるはずだ。ただの操艇の技術じゃない。俺は、それを知りたい」
大二郎は一秒の間、沈黙した。それから光の小柄な身体――一六三センチの限界まで凝縮されたコンパクトな体躯を、値踏みするようにじろりと見下ろした。
「わしの指導は、鳴門の渦よりも遥かに狂暴で厳しいぞ。途中で泣き言を言っても、わしは絶対にボートを止めん」
「望むところです。俺の不完全な地を、香芝さんの荒ぶる波濤で何度も叩き潰して、より硬く、より頑強に鍛え直してほしい」
大二郎の、刻まれた深い皺の奥の口角が、わずかに獰猛に上がった。
「……よかろう。一人の徳島支部のレーサーとして、わしの積み上げてきたすべてを身体に叩き込んでやる」
直後、大二郎の分厚い掌が、光の左肩を裂くような勢いで激しく打ち据えた。
ドォン、と《波濤》の衝撃波が肩から背骨を伝って全身へと走る。だが光は一歩も退かなかった。瞬時にその衝撃を足の裏から床へと逃がし、鳴門のコンクリート地盤を感じながら、老雄の放ったマブイの目方を自らの「根」へと強硬に変換してみせた。
ガレージの床が、ミシ、と低い重音を立てて鳴る。
大二郎の目が、驚きと共に細くなった。それは、一人の指導者としての、深い歓喜の色だった。
ここに、新たなる師弟関係が結ばれた。
それから数日後。あかりのセッティングした連絡を機に、光は自らに関わる大切な仲間たちをガレージへと集めていた。
速水 光(B1・地) ―― 絶対の質量を持つグループの『核』。
南野 杏奈(B1・炎) ―― 外から全てを焼き尽くす圧倒的な『攻撃力』。
野田 あかり(メカニック) ―― 玄武の足元を支える『玄武の母』。
香芝 大二郎(A1・波濤) ―― 鳴門の海を教え込む絶対の『師匠』。
岩崎 架純(元A1・静謐) ―― 光の骨の奥に刺さった『未解決の問い』。
「グループ名は……『鳴門地脈グループ』」
集まった一同を見渡し、光が淡々と言い放った。
「どうだ」
「地脈ってあんたの属性そのまんまじゃん、ひねりがないわ!」
杏奈が呆れたように、しかし嬉しそうに大きく笑った。
「でも、鳴門の狂った底から世界を丸ごとひっくり返すみたいで――うち、最高にええ名前だと思うっちゃ!」
「アタシとしても、公式にグループ化してくれた方がデータの共有や他支部からの資材調達が格段にやりやすくなるっす」
あかりが油にまみれたタブレットを素早く操作しながら言った。
「これで光くん専用のチルト三度ペラ、さらに攻めた形状に叩き直せるっすよ」
「わしのような老いぼれが、今更ペラグループの『師匠』というのも照れくさいがな」
大二郎が太い腕を組み、不敵に笑う。
「だが、このメンツだ。悪くない」
その隣で、妻の架純がどこまでも優しく微笑んだ。
「光くん――内側から湧き上がってくる本当の波の扱い方、あなたにはまだ見せていないわ。このグループにいる間に、私の『静謐』のすべてを、あなたに授けてあげる」
光はその静かな言葉を、五感のすべてで受け止めた。内側から来る波――今の光にはまだ、その概念の正体は解らない。だが、この伝説の女がグループに名を連ねてくれた理由がそれならば――いずれ、水上で真っ向から向き合う時が必ず来る。
「俺がこのグループの一番下から、この徳島支部を質量で支えてみせる」
光は拳を固く握り、全員を見据えた。
「師匠の《波濤》も、南野さんの持つ本物の炎も、あかりさんの誇る最高の技術も。そのすべてを俺の地脈の上に乗せて、鳴門の荒れる海を、俺たちだけの完璧な滑走路に変えてみせる」
「よし!」
杏奈がバチンと光の背中を力任せに叩いた。
「これでアタシらは運命共同体じゃな。光、もう絶対に言い訳はできんぞ!」
「最初から、言い訳などしない」
「大ちゃん――」
杏奈が大二郎の顔を見上げた。
「特訓、一体いつから始めるん?」
「明日からだ」
大二郎が地鳴りのような声で即答した。
「朝一番、鳴門の渦の流速が一日で最も速くなる時間帯に水面へ来い。新しい弟子への挨拶代わりに、もう一度派手に弾き飛ばしてやる」
「楽しみです。今度は、そう簡単には剥がされない」
光は黒曜石の瞳を昏く輝かせた。
ガレージの熱気が、静かに落ち着いていく。五人分の覚悟を孕んだ熱い息吹が、窓の向こうの鳴門の冷たい夜気へと静かに溶けていった。
遥か下関の闇の奥から、相棒「ネ」の声が、潮風に乗って届いた気がした。低く、短く、終わりなき闘争の始まりを告げる、いつもの一声。
光は、直に大地を踏みしめる足の裏で、鳴門の地底のドクドクとした生命の鼓動を感じ取りながら、ガレージの外の水面を静かに見つめた。
暗黒の海で、巨大な渦潮が不気味に、激しく巻いている。まだ、あの深淵の底には届いていない。
だからこそ――俺はまた明日、誰よりも深く、あの激流の底へと沈むのだ。




