『夕映えの重心(センター)』
試運転の全スケジュールを終えた夕暮れ。
燃えるようなオレンジ色に染まるピットを、光と杏奈が肩を並べて歩いていた。
速水光、身長一六三センチ。
男子レーサーの中では明らかに小柄な部類に入るが、その体躯には一切の無駄がない。地脈の超振動に耐え抜いてきた筋肉が極限まで凝縮された、まるで小惑星の『核』のような特異な密度を放っている。
この低い重心こそが――全方向から狂暴な海流が襲いかかる鳴門の渦潮に、誰よりも深く根を張るためには圧倒的に有利なのだと、光自身は確信していた。
明日、香芝大二郎の《波濤》が、その大地の核を真っ向から試すことになる。
一方の南野杏奈は一六八センチ。スラリと伸びた四肢を持つ彼女と並ぶと、杏奈が五センチ高い位置から光の横顔を覗き込むような形になった。
「……光、さっきの旋回、やっぱりまだ機首が浮きすぎじゃったな。チルト三度にするんなら、もっとあんた自身の『重さ』で上からねじ伏せんと、鳴門の不規則な風に一発で掬い上げられるぞ」
杏奈が夕陽を浴びてきらめく長い髪を揺らし、光の頭を上から覗き込むようにして鋭く指摘する。一人の卓越したレーサーとしての、冷徹なアドバイス。
光は傷だらけのヘルメットを左脇に抱えながら、自分を見下ろしてくる彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「わかっている。俺の身体が小柄だから、遠心力と風圧の鬩ぎ合いで、外からは一瞬負けそうに見えるんだろう」
「だ、誰も小柄なんて言うてないわ! ……あんたは、その……ちっこいけど、隣におると巨大な岩盤の上に立っとるみたいにどっしりしとるから、なんか不思議なんじゃ……」
杏奈は自分の言葉の距離感に気づいたのか、急に顔を林檎のように真っ赤にして、慌てて視線を明後日の方向へと逸らした。
「……ありがとう」
光は一秒だけ、二人の間に流れる空気を咀嚼してから、淡々と言った。
「な、なんでそこで素直に礼を言うんじゃ! 変なこと言わんでよ、調子狂うわ!」
「変じゃない。事実を言ってくれたから、礼を言っただけだ」
「変じゃ!! もう、ロボットみたいなしつこさじゃな!」
小気味よい言い合いを繰り広げているそこへ、前方から香芝大二郎と岩崎架純の二人がゆっくりと通りかかった。
大二郎の巨大な体躯が、歩みを止めることなく光の視線を一瞥する。
「明日、楽しみにしているぞ。誠の倅」
それだけを重厚に言い残し、巨躯の影が通り過ぎていく。
すれ違いざま、妻の架純がどこまでも優しく微笑みながら、光の耳元に囁くように言った。
「今夜は、よく眠れるといいわね」
どこまでも温かい、母親のような声音だった。
しかし、その響きが通り抜けた瞬間、光の骨の最深部に、言い知れぬ冷たい『圧』のような何かが鋭く刺さった。眠りを誘う優しさの中に、鳴門の深海が持つ底冷えする絶対の静寂が内包されていたのだ。
二人の老雄の影が、夕闇のピットの向こうへと完全に去っていった。
「……光、あのおっさんはマジでやばいけんな」
杏奈の声から、先ほどの赤みが一瞬で消え去り、低く、重いトーンへと変わった。
「おっさんの引き波はな、ただの水の壁じゃないんじゃ。並走した艇のマブイの出力を外側から完全に圧殺して、本気でボートごと底に沈めにくるぞ」
「わかっている」
「……怖くないんか」
「怖い」
杏奈が、驚いたように光の顔を横から見つめた。光は表情一つ変えず、ただ真っ直ぐに前を向いたままだった。
「だが、あそこは俺が最も深く根を張れる場所だ」
光の声は、驚くるほど静かだった。
「怖いほど荒れ狂い、深い水面であればあるほど――地の底から伸びる俺の根は、より確実に、より深く届く」
杏奈は何も言わなかった。一秒だけ何かを親しむように黙り込み、形成、再び光の歩調に合わせて力強く一歩を踏み出した。
「……よし、決まりじゃ、光! 明日のレース本番、うちが外コースから思いっきりあんたの頭の上に被せてやるけぇな。徳島名物・南野杏奈の大外全速捲り――高い打点から、上空から来る本当の炎の恐怖、その身体にしっかり教え込んであげるわ」
「大二郎さんの後でいい」
「大二郎のおっさんをブチ抜いた後でも、うちとの勝負には全力で来るんじゃろな!?」
「当然だ」
光は一瞬だけ、杏奈の横顔を真っ直ぐに見つめた。
「それが、南野さんの持つ本物の炎に対する――俺の、絶対の礼儀だ」
杏奈の顔が、夕暮れのオレンジ色を置き去りにするほどに、再びカッと赤くなった。
「……うるさいわ、このクソ真面目が」
それだけを吐き捨てるように言うと、彼女は照れ隠しに少しだけ歩速を上げ、光の少し先をスタスタと歩き始めた。
ガレージの奥から、油まみれのタブレットを抱えたあかりが顔を出した。
「光くん、明日の大二郎戦に向けたモーターの微調整、データが出たっすからもう一回ピット裏で確認したいっすよ」
「後で行く。あかりさん、先に玄武の様子を見ていてくれ」
光は一人ピットの端へと歩み寄り、夕日の中でドロドロとしたオレンジ色に染まりながら、不気味に渦巻く鳴門の水面を凝視した。
かつて、あの絶対王者・速水誠がこの極悪な水面を走ったとき――香芝大二郎は確かに、今日と同じように牙を剥いてその真横に立ちはだかっていたのだ。親父はあの戦いの中で、一体何を見つけたのか。重力から逃げ出したあの水面で、親父は一体、何と戦っていたのか。
明日、大二郎の操る《波濤》の引き波が、その消えない答えの断片を握っているかもしれない。
足元で、老犬ネが呼応するように低くガルルと鳴いた。
大鳴門の底から湧き上がる狂暴な水圧の塊が、防潮壁を踏みしめる光の足の裏から、ドクドクとリアルタイムで脳髄へと届く。
重い。下関の激流でも、大村の深インでも決して感じることのなかった、地球そのものが激突し合う種類の圧倒的な重さだ。
明日――俺はチルト三度の弾丸を抱いて、あの狂気の大渦の底へ、誰よりも深い絶対の根を張るに行く。




