『波濤と静謐の老雄』
徳島支部へ移籍して、二週間が過ぎた。
「デートじゃないけんな! 支部の施設と、マブイの溜まりやすい鳴門の特殊なポイントを教えとるだけじゃ!! 勘違いするなよ!!」
顔を真っ赤にしてそう言い張りながらも、南野杏奈は毎日のように光を鳴門の街や競艇場周辺の沿岸へと連れ出してくれた。
彼女の猛烈な、しかし細やかなナビゲートのおかげで、下関とは全く違う阿波の荒々しい潮の空気に、光の身体は着実に馴染み始めていた。
試運転の周回を重ねるたびに、漆黒の玄武が引き起こす渦潮の歪みは目に見えて大きくなっていた。二週間前の「コンマ数秒だけ形が変わった」というレベルが、今では「一瞬、渦の回転そのものが激しく乱れる」という段階まで近づいている。
しかしまだ、決定的な何かが届いていない。断層の芯を完全に掌握できていないのだ。
真夏の暴力的な太陽が照りつけるピットで、光とあかりが汗だくになりながらチルト三度の微調整に没頭していたとき、長机の上に二つの巨大な影が音もなく落ちた。
「……ほう。誠の倅が、ここ鳴門の重い水の上で、親父と同じように『空』を飛ぼうとしとるんか」
地鳴りのように重厚な声だった。
まるで大鳴門橋を遥か海底から支えている巨大な岩盤そのものが、意志を持って喋っているかのような圧倒的な音圧。
光が顔を上げると、そこに二人の凄まじい風格を纏ったベテランが立っていた。
香芝大二郎――徳島支部が誇る《波濤》の絶対的使い手。激流の暴力をそのまま自らの推進力へと変換し、並走する他者のマブイごと艇を物理的に叩き潰す鳴門の重鎮だ。
そしてその隣に寄り添うように立つのは、妻の岩崎架純。《静謐な潮》と謳われ、狂い気狂うどんな大渦をも一瞬にして鏡のような凪へと変えてしまう伝説のレーサー。
「光くん、久しぶりね。大村のレース、中継で見ていたわよ。随分と凛々しくなったじゃない」
「お前の親父がこの鳴門を走っていた頃、わしが常に同じ水面で火花を散らしとった」
大二郎が、刻まれた深い皺の奥の眼光を細めた。
「あかりの親父の工房にも、昔は随分と世話になったもんだ。……本当に久しぶりだな、お嬢ちゃん」
「お、お久しぶりっす、大二郎さん、架純さん」
普段は強気なギャルのあかりが、直立不動で深く頭を下げた。
「大二郎さん」
光は作業の手を止め、その老雄の双眸を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は、飛ばない。親父のように空へ逃げるつもりはありません。このチルト三度の斥力を反転させ、鳴門の渦の底を、根の質量で丸ごとぶち抜くつもりです」
大二郎の漆黒の瞳に、獲物を見つけた肉食獣のような鋭い光が宿った。
次の瞬間、大二郎がわずかに身の内のマブイを解放した。
ピット内のコンクリート床が、ミシ、と微かに鳴る。
それと同時に、係留されていたピットの水面が不気味に波立った。極めて小さな、音もない波だ。しかし、その微細な重力波が触れた瞬間、ピットに並ぶ全てのモーターボートが、数センチメートルずつ強引に水底へと沈み込まされた。
音もなく。静かに。ただ圧倒的な『質量』の暴力。それだけで、この男が積み上げてきた大地の目方が伝わってきた。
「ひゃっ――!」
あまりの重圧に、杏奈が悲鳴を上げて二人の間に割り込んだ。
「大二郎のおっさん、いきなり若い子を威圧せんといてよ! この子が――」
だが、杏奈は言いかけて言葉を失った。
光が、衣服の裾すら揺らすことなく、完全に微動だにせずそこに立っていたからだ。足の裏で大二郎の放った超重量の波を冷徹に受け止め、接地させながら、ただただ前だけを鋭く見つめ返している。
大二郎が、その光の姿を見て、不敵に口角をわずかに上げた。
「速水光。お前のその言葉と覚悟、本物かどうか、明日からの本番のレースで、このわしが直々に試してやろう。手加減はせんぞ、わしの《波濤》に真っ向からぶつかってこい」
「望むところです」
隣でそれを見ていた架純が、ふっと慈愛に満ちた、しかし冷徹な微笑を浮かべた。
「光くん――波はね、外側から襲ってくるだけじゃないわよ。内側から湧き上がってくる本当の波を、あなたはまだ、何一つ知らないでしょう?」
意味がわからなかった。しかし、その静かな言葉が、冷たい楔のように光の骨の奥深くに突き刺さった。
架純が大二郎の逞しい腕にそっと手を添え、促す。二人の老雄の影が、ゆっくりとピットの奥へと去っていった。
「……光、あのおっさんはマジでやばいけんな。本気でボートごと水底に沈めにくるぞ。油断したら死ぬっちゃ」
杏奈の声が、いつもより何オクターブも低く、本物の恐怖を孕んでいた。
「わかっている」
光は彼らの去った水面をじっと見つめた。渦潮が、相変わらず不気味に巻いている。
「あかりさん。明日の朝の試運転までに、もう一度だけ玄武のギヤケースとアジャスターを調整してくれ。チルト三度での引力と斥力の均衡点、マブイの出力をもう少しだけ『前』に引き出せるはずだ」
「了解っす」
あかりは迷わず巨大なスパナを握り直した。
「どこまでだって、徹底的にその無茶に付き合うっすよ」
老犬ネが、光の足元で頼もしそうに低くガルルと鳴いた。光はその相棒の声を聞きながら、再び巻く水面を見た。
親父がこの鳴門の激流を走っていた頃――香芝大二郎は確かに同じ水面にいた。親父が放っていたあの「黄金の翼」のチルト三度を、あの老雄は一番近くで、その網膜に焼き付けていたのかもしれない。
骨の底でドクドクと燃え続ける問いの形が、また一つ、静かにその姿を変えていった。
「なぜ俺を見なかったのか」でもない。
「あんたは一体、どこにいるのか」でもない。
「母さんの遺した風の正体は何なのか」でもなく――今は、ただ。
(――親父はかつて、この狂暴な渦巻く水面で、一体何を見つけたのか)
去り際に一度だけ振り返り、光の地脈を計るようにじっと見つめてきた大二郎の冷徹な眼光が、夕闇のピットの中で、いつまでも妖しく光り続けていた。




