『逆ベクトルの弾道(チルトスリー)』
二〇五二年、七月。徳島・ボートレース鳴門。
競艇界において「一筋縄ではいかぬ極悪の難水面」と称されるその場所で、大村を制した男は、最初から世界の常識をひっくり返そうとしていた。
渦潮が、巻いている。
ピットから見下ろす鳴門の水面は、下関の鋭い激流とも、大村の底深い高密度水圧とも根本から異なる不気味な蠢きを見せていた。太平洋と瀬戸内海――異なる二つの巨万の海流が狭い海峡で真っ向から激突し、水面下で巨大なマブイの蛇たちが常に喰らい合っている。
――そういう、生きた水だ。
光は直に大地を踏みしめる足の裏でその狂暴な質量を感じ取りながら、漆黒の玄武に組み込まれた、異様な角度を帯びたプロペラにそっと触れた。
「光くん……本当に、本当にこのセッティングでやるんっすか」
作業台の傍らに立つあかりの声は、いつもより数オクターブ低く、張り詰めていた。
「チルトプラス三度なんて設定、ボートを水面から極限まで浮かせて、接地抵抗をゼロにするための超攻撃型・伸び仕様のセッティングっすよ。艇を大地の質量と同調させて沈み込ませる、光くんの地脈とは文字通り『真逆』の破滅的ベクトルっす」
「わかっている」
光は冷徹な手つきで、玄武のモーターの取り付け角度――チルト三度のアジャスターを確認した。
「親父はかつて、この浮く力を利用して大地の重さから空へ逃げた。なら、俺はその同じ力を、鳴門の渦の底へ深く突き刺すためのバネとして使う。飛ぶためじゃない――浮き上がろうとする凶暴な斥力と、沈み込もうとする大地の引力を一本の限界点で無理やり束ねて、前へ進むための巨大な弾丸にするんだ」
「飛ぶんじゃない。大地そのものを、前へ打ち出す……っすね」
あかりは一秒の間、何かを覚悟するように強く唇を噛み締め、黙り込んだ。
「……そこまで言うなら、アタシが何としてでも機体を保たせてみせるっすよ。やってみるっす!」
試運転水面へのピットアウト。
スロットルレバーを僅かに開けたその瞬間、漆黒の玄武の機首が、まるで天を突くように狂暴な角度で上方へと跳ね上がった。
同時に、光の両腕と体幹へ強烈な反転G圧がのしかかる。水面から完全に剥がれて浮き上がろうとするチルト三度の艇体と、それを強引に大村以上の超重量で海底へと沈め込もうとする光自身の地脈が、肉体の中で真逆に引き合い、骨を軋ませていく。
重い。これまでのレースで経験してきたどれとも違う、異質な種類の重さだった。
艇が波頭を拾ってバウンドするたび、鳴門の複雑な超水圧が光の肉体ごと魂を底へと引き摺り下ろそうとする。艇は浮こうとし、地脈は沈もうとする。二つの相反するエネルギーの奔流が、光の骨格の中で凄絶な主導権争いを繰り広げていた。
「光!! あんた一体、何をしよんじゃバカァァァ!!」
すぐ真横の試運転レーンから猛烈な勢いで並走してきたのは、赤い勝負服を纏った南野杏奈だった。
「そんな不細工な跳ね方しとったら、鳴門の凶暴な渦潮に一発でカウリングごと叩きつけられて木っ端微塵じゃ! 全然あんたらしくないわ!!」
「黙れ、南野さん!」
光は異常な振動で暴れ狂うステアリングを、血が滲むほどの力で押さえ込みながら吼えた。
「俺は浮き上がろうとしてるんじゃない! 上へ向かうすべての力を――今、前への推進力に変えようとしてるんだ!!」
浮こうとする艇を、力任せに抑え込むのではない。上がるエネルギーそのものを、そのまま前へと弾け飛ぶ力へと強硬にスライドさせる。
光は千切れそうなハンドルを真っ直ぐに固定したまま、魂の目方を乗せて、前へ――押し出した。
「ドンッ――――!!」
玄武の船底から、大村の戴冠時を遥かに凌駕する赤茶色の重力波が、一閃して走った。
その瞬間――鳴門競艇場の象徴である、あの巨大な渦潮が、物理的に大きく歪んで揺らぐ。
水流が消えたのではない。凪いだのでもない。ただ、渦の描いていた完璧な円の回転が、コンマ数秒の間だけ、完全にその方向性を見失って不格好に歪んだのだ。万物を巻き込むはずの水流が、光の放った超質量の一撃によって、一瞬だけ恐怖したかのようにその動きを止めた。
「……っ」
通信インカムの向こうで、あかりの息を呑む音が静かに止まった。
『……今、モニターの流速データが……渦の回転が、完全に歪んだっす……』
「一瞬だけ、止まりかけたっちゃ……」
杏奈が並走するボートの上で、愕然としたように声を落とした。
「ほんの一瞬だけ、鳴門の海が、光の重さに負けた……」
三人とも、それ以上は言葉が出ず、ただ沈黙した。
歪んだ渦潮は、すぐに何事もなかったかのように元の激しい回転へと戻り、鳴門の水は相変わらず不気味に巻き続けている。だが――あの一瞬、地球の理が書き換わりかけた光景は、確かに三人の網膜に焼き付いていた。
「まだ、決定的に足りない」
光は乱れる息を整えながら、冷徹に言い放った。
「あかりさん、プロペラの翼面形状、もう一回ピット裏で微調整を頼む。まだ大地の『重さ』をバネに乗せきれていない。ペラのピッチを極限まで重くしてくれ」
『……了解っす』
あかりは手元のタブレットのグラフを見つめながら、声を微かに震わせて応じた。
『チルト三度の上昇力を、強引に地脈のバネで水平方向へ寝かせる――理論の計算上は成立するっす。でも、そんな異常なエネルギーの鬩ぎ合い、光くんの生身の身体が最後まで保つかどうかっすよ!』
「保たせる。そのためにここへ来た」
『……本当に、最初からそういうこと言うと思ってたっすよ、この頑固者は』
あかりはインカム越しに、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな深い溜め息をついた。
『分かったっす。どこまでだって、アタシが徹底的にその無茶に付き合って、最高の玄武に仕上げてみせるっすよ!』
「ふん」
そのやり取りを聞いていた杏奈が、ヘルメットの奥で不敵に鼻を鳴らした。
「相変わらず、耳を疑うような無茶苦茶な理屈じゃな、速水光」
それだけを言い残すと、杏奈は紅蓮のマブイをプロペラに点火し、一気に速度を上げて前方へと突き抜けていく。
「――でも、その理不尽なまでの強さこそが、あんたじゃろ。うちがこの徳島へ、鳴門へ引っ張ってきたのは、そういう最高にイカれた男じゃけぇな! 本番のレース、楽しみにしとるよ!」
光は玄武のスロットルを戻して水面に静かに止め、もう一度、白く泡立つ鳴門の渦をじっと見つめた。
さっき一瞬だけ生み出した「渦の歪み」の確かな手応えが、未だに大地を踏みしめる足の裏にじっとりと残っている。届きかけている。あと少しで、この極悪な水面を完全に支配できる。
かつて偉大なる父親・速水誠は、このチルト三度という極限のセッティングを用いて、重力から解き放たれて空の彼方へと逃げ去った。
けれど、息子の俺は、まったく同じ出力を用いて、この鳴門の水面のさらに底、誰も触れたことのない深淵へと向かって真っ直ぐに突き進む。
空へ昇る翼が正しいのか、底を穿つ根が正しいのか――その答えは、本番の号砲が鳴り響き、水上で激突してみるまで誰にもわからない。
ただ、今の光の足の裏は――まだ、この鳴門の渦の、本当の底の地形を感じ取れてはいなかった。
「あかりさん」
光は黒曜石の瞳をさらに昏く輝かせ、静かに告げた。
「セッティングの数値を書き換えてくれ。もう一本、あの渦の芯まで走る」
『はいっす!!』
二人の覚悟に応えるように、鳴門の狂暴な渦潮が、不気味な地鳴りを立てて再び激しく巻き上がっていった。




