『共犯者のピットイン』
野田ワークスの古びたガレージ。
使い込まれたオイルの重い匂いと、時折パチパチと爆ぜる溶接の火花の音が混ざり合う空間に、速水誠は静かに立っていた。
作業台の上に無造作に置かれた、玄武の予備プロペラ。誠はその漆黒のブレードを、まるで愛器の弦を確かめるように指先で軽く弾いた。
キィィィィン――――。
鼓膜を鋭く震わせる、極めて澄んだ高音の金属音。だがその直後、砂鉄を高密度で練り込んだ特殊ブレードから、下関の海底大断層を思わせる不気味な超重低音がズズズ……と一瞬だけ低く響いた。
次の瞬間、作業台の上に転がっていたワッシャーや細かなボルトが、目に見えない局所的な引力に引き寄せられるようにして、プロペラ側へと数ミリ転がった。
「いい音だ。野田工房の仕込むプロペラは、お前の親父の時代から何一つ変わっていないな、あかり」
あかりは油汚れのついた軍手で額の汗を乱暴に拭った。
「……そこまで一発で見抜くなんて、流石は往年の六冠王っすね。光くんのあの無茶苦茶な『沈み込み』の質量を受け止めるには、これくらいの粘りと硬度がブレードに必要なんっすよ」
「お前の親父も、昔全く同じことを言っていた」
誠は遠い水面を思い出すように目を細めた。
「俺がまだ、山口の地脈を走っていた頃にな」
あかりはボルトを締め直す手をぴたりと止め、誠の
黄金のマブイを纏った背中を真っ直ぐに見据えた。
「父親として、あかりに一つだけ聞かせてほしい」
誠がプロペラから静かに手を離し、ゆっくりと振り返る。
「お前は――光のあの不器用な『地』が、この世界のどこで一番美しく光ると思っている」
それは、予期せぬ角度からの鋭い問いだった。あかりは手にしたスパナを握る指先にグッと力を込め、迷うことなく言い放った。
「光くんの地が、誰もが『走れねえ』って諦めた最悪の難水面を、真っ平らな滑走路に変えちまうあの瞬間を、アタシは特等席で誰よりも見たいんっすよ。それが一体どこの水面なのかは――アタシが決めることじゃない。光くん自身のマブイが選ぶことっす」
誠はその答えを聞き、満足そうに双眸を細めた。
「今頃あいつは、その書類を引っ提げてお前の元へ向かっているはずだ」
誠は静かに歩き出し、ガレージの出口へと向かった。
「二人で悩み、選ぶその道こそが、本当の意味での『支部変更』になる。……それと、どこを選んだとしても、玄武の予備タンクの調整は通常より一段階『重め』に設定しておけ。この数日で、あいつの地脈の質量はまた不気味に増している」
「っす……了解っす!」
誠の乗った車のエンジン音が、夏の夜の闇へと滑らかに走り去っていった。
それから数分後――突如としてガレージの壁板に掛けられた無数のスパナや大型レンチが、一斉にキチキチと音を立てて入口の方向へと傾き始めた。近づいてくる、あの規格外の重力に引き寄せられる、金属たちの絶対的な本能。
「あかりさぁぁぁん!!」
夕日に赤々と照らされた急な坂道を、光が猛然と走ってくる。その右手には、白い支部変更届が固く握られていた。彼が一歩進むごとに、ガレージの床板がズシン、ズシンと心地よい質量で激しく揺れ動く。
光は肩を激しく上下させ、息を切らせながらガレージへと飛び込んできた。そして、あかりの目を真っ直ぐに射抜いた。
「徳島に決めた」
光は握りしめていた書類をあかりの目の前へと突き出した。万年筆の青いインクで、力強く「徳島」と刻まれた文字。
「俺一人のための大地じゃねえんだ。あかりさん――俺と一緒に、来てくれ」
あかりは一秒の間、その赤い朱肉の押された文字を見つめた。それから、光の泥まみれの顔を見る。息を荒く切らしながら、夏の夜の坂道を、一寸の迷いもなくただ真っ直ぐに走ってきた男の顔。
「あったり前っす!!」
あかりは黒く汚れた軍手のまま、光の右手をがっちりと力強く握りしめた。
大村の凄絶な水面と、地脈の暴走と、地下二百メートルの暗闇の断層を共に越えてきた、焦げ付いた皮膚の、熱い体温がそこにはあった。
「鳴門の狂った潮流、もう調べてるっすか?」
あかりはパッと手を離すと、すぐさま作業台のタブレット端末を起動させた。
「渦潮の底は、海流が複数の方向から予測不能のベクトルで複雑に交差してるっす。普通の方法じゃ、地脈の根をどの方向に張ればいいか、マブイ・サーキットが瞬時に判断できない最悪の水面っすよ」
「なら、全方向に根を張るまでだ」
「……相変わらず無茶苦茶っすね。それ、本当にできるっすか?」
「やるまでわからない。やるだけだ」
「了解っす!」
あかりはモニターの数値を鋭く睨みつけ、キーボードを叩いた。
「じゃあ、玄武の予備タンクのセッティング、一段階『重め』に書き換えておくっすね」
光は黒曜石の瞳を丸くした。
「……なぜ、それがわかった。まだ俺の出力の変化を見せていないはずだぞ」
「誠師匠に直接、先手を打たれたっすよ」
あかりは顔を上げ、不敵に笑ってみせた。
「さっきまで、まさにそこに立っていたっす」
光は一秒の間、声を失って沈黙した。
「……親父が、ここに?」
「はいっす」
あかりは優しく、しかし確かなトーンで告げた。
「光くんのマブイが騒がしいって、心配そうに言っていたっすよ」
光は自らの、グローブの焦げ跡が赤々と残る右手を見つめた。大村の優勝戦で、地球のバネを引いたあの代償の傷跡。
父がわざわざこの場所に足を運んだ。父が、自分ではなく相棒のあかりとこれからの玄武について話をした。そして、父が「予備タンクを重めにしろ」と技術的な助言を残していった――それはすなわち、あの絶対王者が、速水光の『次なる走りの進化』を完全に想定し、その航跡を信じているという何よりの証明だった。
骨の底でドクドクと燃え続けていた、父親への命懸けの問いが、今、静かに、しかし決定的にその姿を変えた。
「なぜ俺を見なかったのか」でもない。
「あんたは一体、どこにいるのか」でもない。
「母さんの遺した、あの風の正体は何なのか」でもなく――今は、ただ。
(――親父も、俺と同じように、この地脈の鼓動を読んでいる)
同じ質量を共有しているという、その確かな手応えだけで、今の光には十分に足りていた。
「行くぞ、あかりさん」
光はヘルメットを抱え直し、力強く前を向いた。
「徳島の鳴門まで、この大地の根をどこまでも伸ばしながら行く」
「はいっす!!」
二人がガレージの扉を開け、水面へと一歩を踏み出した。
新章の幕開けを告げる夏の重い夜風が、これから渦潮へと挑む二人の背中を、強く、激しく押し出していった。




