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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第三部 鳴門激流編

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『黄金の影、地底のルーツ』


 光が支部変更届を三つに折り畳んだ瞬間、玄関の空気の密度が不自然に変質した。

 カチリとも、ギィとも言わなかった。鍵が開いた物理的な音は一切しなかった。ただ――そこに、圧倒的な質量を伴った気配が、唐突に「あった」。


「親父」


 速水誠が、薄暗い居間の入口に立っていた。

 かつて競艇界の頂点に君臨した伝説の六冠王。そして、速水光という男の父親。二十四話分の長きにわたり、光がその骨の最深部で燃やし続けてきた問いの対象が、夏の夜の湿った空気のただ中に、音もなく静かに佇んでいた。


 誠が居間へと一歩足を踏み入れた瞬間、天井で明滅していた古い蛍光灯の光がわずかに変色した。くすんだ白から、神聖な黄金色に近い輝きへ。それは一瞬だけ部屋を満たし、すぐに元の色へと戻った。大地の重さに耐えかねて空へ逃げ、黄金の翼を手に入れた男だけが持つ、重力のベクトルとは完全に逆を向いた、拒絶の輝きだ。


 二人は長机を挟み、無言で向かい合って座った。

 針が落ちても鼓膜を打つほどの、重苦しい沈黙が部屋を支配する。


「――なぜ、来た」


 光が、低く絞り出すような一言で沈黙を切り裂いた。それは問いの形をしていたが、答えを求めるためのものではなかった。ただ、ぶつける。二十四話分の間、ずっと胸の奥で燻っていた「なぜ俺のレースを見なかったのか」という飢えに似た叫びが、初めて「父親本人に向けた現実の言葉」として、確固たる形を取った瞬間だった。


「お前の地脈が、随分と騒がしかったからな」


 誠は視線を落とし、長机の上に置かれた支部変更届を見つめた。


「この部屋の外まで、お前が放つ迷いの超重振動が響いていたぞ」


「迷ってない」


 光は即座に言い返した。その黒曜石の瞳には、一切の揺らぎもなかった。


「そうか」


 誠はわずかに口角を上げ、不敵に、しかしどこか懐かしむように笑った。


「なら、いい」


 再び、短い沈黙が流れた。

 長机の上では、スマートフォンの液晶画面が、先ほど引き裂かれるように切れた三人からの着信履歴を静かに映し出している。炎、風、溶岩。それぞれが光を自らの深淵へと誘う、命懸けの招待状。


「光」


 誠が、遮光カーテンの向こうの闇を見つめたまま静かに言った。


「お前は、一体何にその根を張りたい」


 それだけだった。地属性のマブイに関する高尚な哲学でもなければ、次なる戦場の選び方に関する講義でもない。父親として、そして先を行く一人のレーサーとしての、極めてシンプルな、ただ一つの問い。


 光は、傍らで静かに佇んでいたネの銀色の背中に、そっと手の平を置いた。

 ドクドクと脈打つネの確かな体温が、皮膚を通じて手の平から心臓へと伝わってくる。この老犬は、ずっと光の足元にいた。下関の激流の水面でも、大村の海底の暗黒でも、あの地下二百メートルの廃坑の断層でも――いつだって、この質量だけは光の側に存在していた。 


「あかりさんと、俺たちの戦場を決める」


 光は真っ直ぐに誠を見据えて言い放った。


「俺一人のための大地じゃない。俺とあかりさんが、玄武と共に生き、一番深く根を張るべき場所を、俺たちの手で選ぶ」


 誠は何も言わなかった。反論も、肯定もしない。ただ、驚くほど自分に似た、頑固な息子の顔をじっと見つめ返していた。

 光はその父親の双眸を、生まれて初めてまともに、正面から見据えた。


「あんたは――俺の地脈が騒がしいのを、壁の外からでも肌で感じられるのか」


「昔は、もっと近くで、お前のマブイの産声を直接感じていた」


 誠の声が、その瞬間だけわずかにトーンを変えた。伝説の六冠王の仮面が剥がれ、一人の不器用な父親のそれが覗く。


「――お前が、生まれたばかりの頃はな」


 光は言葉を失い、黙り込んだ。何かが、骨の奥底で生き物のように激しく動いた。


「なら、なぜ見なかった。俺の、これまでのレースを」


 誠は一秒だけ、深く目を伏せた。その横顔には、黄金の翼を持つ男らしからぬ、ひどく暗い影が落ちていた。 


「それはいずれ、お前がさらに深くなった時に話す」


「いずれじゃない。今、ここで――」


「……今日は、ただそれだけを言いに来た」


 誠は光の言葉を遮るように、静かに立ち上がった。全身から放たれる黄金のマブイが、夜の闇に溶けるようにその輪郭を薄れさせていく。


「お前が選んだその場所が、これからの速水家の、新しい絶対の地盤になる」


 玄関へと向かってゆっくりと歩きながら、誠が不意に足を止めた。だが、決して振り返ることはなく、背中で語るように冷徹に言った。


「光。お前のその地脈は――本当は、死んだ母さんの『風』に、酷似している」


「……っ!」


「お前の地脈の『バネ』は、沈んだ分だけ弾けると言ったな。それは、母さんの風が、お前が生まれて少ししてからの復帰レースで発現させた、あの引き波を切り裂く『風の衣』の原理そのものだ。地の重さに風が混じっている。だから、お前の風はいつも、お前の大地の後についてきた」


 光は勢いよくパイプ椅子を蹴立てて立ち上がった。


「どういう意味だ、親父! 母さんは――」


 だが、その問いに対する答えは、二度と返ってはこなかった。

 誠はそのまま玄関の闇をすり抜けるようにして、夏の生暖かい夜気の中へと、完全に姿を消した。

 静まり返った居間には、光と、ネの低い呼吸音だけが取り残されていた。


 父親が最後に言い残していった言葉の意味が、今の光の脳細胞ではまだ、どうしても理解できなかった。母の風。俺の地脈が、母さんの放っていた風に似ている――それは一体どういうことか。


 知りたかった過去の答えは得られず、代わりに、脳裏の霧の向こう側に新たな問いの種が植え付けられた。消えない問いが、また一つ、黒く巨大に増えていく。


 ネが、先ほどまで誠が座っていた畳の上の空間をじっと見つめていた。それから、やれやれと宥めるように光を見上げた。どこまでも静かで、すべてを受け入れるような賢い目だった。


「……ネ。行くぞ」


 ネは光の足元へと歩み寄り、その重い顎を光の甲の上にそっと乗せた。その質量が、光の焦りを静かに冷ましていく。


 光は長机の上の支部変更届を、もう一度だけ手に取った。「徳島」と万年筆で力強く書き込んだ青いインクの文字が、蛍光灯の下で鮮烈に浮かび上がっている。


 鳴門の渦潮――あの狂気のように全てを巻き込む激流の底には、まだ世界の誰も根を張ったことのない、原初の強固な地盤が眠っているはずだ。あかりは「どこでもついて行くっすよ」と、あの時、弾けた声で言ってくれた。ならば、光が選んだあの渦の底こそが、二人の魂の根を張るべき、真の戦場だ。


 光は書類を丁寧にしつらえ、白い封筒の中へと滑り込ませた。


「行くぞ、ネ。あかりさんに直接これを手渡してから、ポストに入れる」


 夏の夜風が、生暖かい湿度を伴って、遮光カーテンを激しく揺らしながら居間へと流れ込み続けていた。

 親父への命懸けの問いは、今夜を境に、またその形を急激に変質させていた。


「なぜ俺を見なかったのか」


 という過去への呪縛から、「なぜ今夜、俺の元へ来たのか」へ。


 そして今――「母さんの遺した、あの風の正体とは一体何なのか」という、自らのルーツの深淵を見据える反逆の眼差しへ。


 決して消えない。どれだけ走り、どれだけ勝とうとも、この骨の底の飢えが消えることはない。

 だからこそ――速水光という男は、また明日からの過酷な激流へと向けて、何度でも、命を懸けて走り出せるのだ。

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