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からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第三部 鳴門激流編

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『群雄の招待状』


 二〇五二年、七月。下関。

 本州の西端から吹き込む夏の湿った夜風が、速水光の年季の入った居間へとどろりと重く流れ込んでいた。

 使い古された長机の上に、一枚の白い書類がぽつんと置かれている。


 ――支部変更届。

 光は蛍光灯の青白い灯りの下でその四角い紙片をじっと眺めながら、自らの内側に一つだけ、冷徹な問いを立てていた。


(父なら、この四つの選択肢からどう選ぶだろうか――)


 かつて大地の重さから逃げ出した絶対王者。だが、もしあの男が逃げなかったとしたら、もし今も水面を走っていたとしたら。

 答えは、最初から光の中で出ていた。速水誠なら、この世で一番キツく、一番理不尽な水面を選んだはずだ。それこそが、たとえ空へ逃げた後であっても絶対に消えることのなかった、あの男のレーサーとしての本質サガなのだから。


 その時、静寂を破ってスマートフォンが狂暴に震えた。画面を見ずに出る。


『光ッ!! さっさと徳島支部に変更届を叩き送れぇぇ! 鳴門の狂った渦潮こそが、あんたの地脈をさらに尖らせる最高の砥石じゃ! それに――あんたが山口におったら、うちが直接ぶっ倒すチャンスが少なすぎるじゃろが!!』


 徳島支部の南野杏奈だ。

 受話器の向こう側から、彼女の放つマブイの熱風が本物さながらに燃え盛っているのが伝わってくる。そして、最後の一言には、隠しきれない彼女の本音が切なく混じっていた。


「南野さんも、大村での優勝戦、六枠から最後まで走りきったな。おめでとう」


『うるさいわ! そんなお祝いはええから、早う決めんかい!!』


 気恥ずかしさを誤魔化すように、一方的に電話が切れた。

 余韻に浸る間もなく、すぐに二本目の着信が画面に滑り込んでくる。


『光くん。東京・江戸川の、あの波の壁がうねる極悪な水面を知れば、あなたの地脈はさらに絶対的なものになるわ』


 東京支部の丸山優奈だ。受話器から冷徹な声が響いた瞬間、部屋の遮光カーテンが、風もないのに彼女の風のマブイに誘われるようにふわりと浮き上がった。


『何より――私の風が、あなたを、もっと近くに感じたがっているのよ』


 大人の余裕を脱ぎ捨てた、あまりにも直接的な告白。光は一秒だけ、沈黙を守った。


「丸山さん。大村の優勝戦、何着だった」


『……三着よ。一マークの立ち遅れが響いて、麻帆に競り負けたわ』


 優奈の声が、受話器の向こうでわずかに悔しげに沈んだ。


『だから――次は、最初からあなたの真横で走りたい。待っているわね』


 ツーツーと音がして電話が切れる。

 まるで競い合うように、息つく暇もなく三本目の着信が画面を真っ赤に染め上げた。


『……光。あなたが次に沈むべき場所は、岡山だと最初から決まっているわ』


 岡山支部の勝元麻帆だ。彼女の低い声が鼓膜を震わせた瞬間、居間の室温が数度跳ね上がったかのように、じっとりとした熱気が立ち込める。


『私の放つ溶岩の真横で走ることでしか、あなたの不完全な地属性は、真の完成形へと至らない。大人しく、私の元へ来なさい』


「麻帆さん」


 光は黒曜石の瞳を細めた。


「大村の進入で、わざわざコースを開けて道を作ってくれたな。なぜだ」


 長い、重苦しい沈黙が電波の向こうで横たわった。


『……ただ、見ていたかったのよ』


 麻帆の声が、普段の冷徹な仮面を剥ぎ取られたように、わずかに震えて変わる。


『あなたが本当に、あの深淵の底から届くかどうか。答えはもう、大村のホームストレッチで出たわ。だから――次は絶対に止めない。私の溶岩で焼き尽くしに行く。来なさい』


 通話が切れ、部屋に再び静寂が戻る。

 三人の猛者たちからの、命懸けの招待状。光は迷うことなく、今度は自分から野田あかりの番号へとダイヤルした。コールは一回で繋がった。


『光くん、どこに行くか、もう決まったっすか』


「――」


 光がその行き先を答えようとした瞬間、あかりがそれを遮るように、弾けた声で先に言った。


『っす、どこだって、光くんが行くならアタシもついて行くに決まってるっすよ! 玄武を世界一にするのは、アタシの仕事っすから!』


 それだけだった。光は何も言わなかった。

 エンジニアとレーサーとして、これ以上言葉を重ねる必要などどこにもなかった。静かに通話ボタンを押す。

 その時、居間の隅で眠っていた老犬ネが、のそりとゆっくり立ち上がった。


 長机へ歩み寄ると、白い支部変更届の真上へと、その漆黒の太い肉球をズシンと力強く押し当てた。ミシ、と古い木製の机が、信じがたい質量で軋みを上げる。


「……ネ。ここか」


 ネは静かに肉球を書類から離した。そこには、大地の力を宿したかすかな跡が残っていた。

 光は迷わず朱肉をつけ、愛用の万年筆を取った。

 支部変更届の提出欄に、己の意志を込めて、一文字ずつ力強く書き込んでいく。


 ――徳島。

 カサリと音を立てて書類を三つに折り畳んだ。

 その瞬間、足の裏に、次なる過酷な水面の景色が鮮明に見えた気がした。


 狂気のように逆巻く、鳴門の渦潮の底。地の属性が、最も深く、最も強固にその根を張るべき過酷な苗床――鳴門の海底にある巨大な岩盤地帯が、見えない引力で光の魂を強く引き摺り込もうとしていた。


「行くぞ、ネ。あかりさんにも連絡を回す」


 夏の生暖かい夜風が、カーテンを揺らして居間に流れ込んでいた。

 親父への、そして世界への命懸けの問いは、未だに光の骨の最深部で静かに、激しく燃え続けている。決して消えない。勝っても、どれだけ環境が変わろうとも、この飢えが満たされることなどない。

 だからこそ――俺は、また次の激流へと向けて走り出せる。

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