「優勝戦前夜——母は、どこへ向かったのか」
予選最終日の夜。湿った大村の空気が、明日へ向かう戦士たちの気配で重く淀んでいた。巨大掲示板の前に、群衆の静かな熱狂が渦巻いている。光はその人混みを割って進み、そこに貼り出された優勝戦進出メンバーのリストを直視した。
【大村新人リーグ 優勝戦進出メンバー】
一号艇:三宅 迅(雷) ……得点率 九・四二
二号艇:速水 光(地) ……得点率 九・一五
三号艇:勝元 麻帆(溶岩) ……得点率 八・八六
四号艇:丸山 優奈(風) ……得点率 八・五〇
五号艇:白河 玲於奈(氷) ……得点率 八・一二
六号艇:南野 杏奈(炎) ……得点率 七・九八
光は自分の名前の下に刻まれた「三号艇・勝元麻帆」の文字を凝視した。下関で「まだだ」と冷徹に言い残した女が、今度は同じ水面で、同じ優勝戦の景色を走る。かつて光を地獄の淵に突き落とした溶岩の女帝が、ただの案内役ではない、対等なライバルとして隣り合わせる。その意味が、骨の最深部で重い鉛となって沈み込んだ。
「……決まったな」
光は肺の奥に溜まった、熱く重い空気を吐き出した。
その背後で、チリチリと空気を焦がすような放電音がした。振り向かなくてもわかる。一号艇の権利を持つ男、三宅迅だ。彼は一号艇の白いカードを指先で弄びながら、光の横に並んだ。
「大村の一コースに入った俺は、もうお前には追わせない。光、二コースから俺の放つ電撃の残像でも拝んでな」
「……ああ」
光は前を見据えたまま、地鳴りのように短く答えた。
「だが、その引き波ごと――俺の根の下に、丸ごと埋めてやる」
迅が短く舌打ちをして、闇の中へ去っていく。
その直後、熱風のような気配とともに南野杏奈が弾け飛んできた。
「光ぉぉぉ!! おめでとう!! ほんまにおめでとう!!」
「南野さんもおめでとう」
光は杏奈の真っ直ぐな瞳を受け止めた。
「また一番後ろから、俺の背中を焼きに来るつもりか」
「当たり前じゃろがい! 覚悟しときや!」
杏奈は笑った。大きく、迷いのない、眩しいほどの笑顔だった。だが、その瞳の奥には、レース前夜特有の鋭い火が宿っている。
「光……ほんまに強うなったな。……明日は、一人のレーサーとして手加減せんで」
それが、彼女なりの最大限の敬意であり、宣戦布告だった。彼女の放つ炎が光の腕に触れ、パチパチと心地よい火花を散らす。
「ああ。全力で行く。それが、あんたの炎に対する俺の礼儀だ」
ピット裏へ戻ると、野田あかりが端末の数値を睨んでいた。光が部屋へ入った瞬間、あかりは「二枠っすね」とだけ呟いた。
「明日のセッティングは――」
「もうやっといてくれ」
光の言葉に、あかりは動きを止めた。
「……終わってるっす」
「知ってる」
あかりはそれ以上何も言わなかった。タブレットを抱えたまま、足早に去っていくその背中には、言葉を超えた信頼が色濃く滲んでいた。
その夜、光は宿舎で、明日のレースのために用意された黒い勝負服を静かに眺めていた。二号艇の証。父・速水誠の時代、彼は何色の勝負服を纏って大村の風を切っていたのか。母は、光が幼い頃に病で失ったその人は、どこで何をしていたのか。
答えは出ない。だが、その問いが、黒い布の前で静かな地熱となって灯り、やがて消えていった。
廊下で、一度だけ足音が止まった。ドアはノックされない。しばらくの間、光のすぐ外側に誰かの気配が留まり、そしてまた、遠ざかっていった。
明日の玄武のセッティングは、昨夜の時点ですでに完璧だった。光はそれを知っていた。彼女たちは皆、言葉にしないだけで、自分と同じ場所を見ている。
「沈んで、溜めて――」
光は黒い勝負服にそっと手を触れた。
「浮上する」
足の裏には、大村の持つ圧倒的な水圧がある。一号艇には迅の雷が待ち、三号艇には麻帆の溶岩が、四号艇には優奈の風が、六号艇には杏奈の炎が控えている。全員、この水面で魂の火花を散らしてきた強敵だ。
父への問いが、骨の底でドクドクと燃えている。勝っても、負けても、この飢えが消えることはない。だが、消えないからこそ、俺はまた走れる。
窓の外を見上げれば、大村競艇場のカクテル光線が、水面を白く、残酷なほど美しく照らし出していた。この強烈な光の下を、父は走ったことがあるのか。まだ、わからない。
遠くで、ネの声が聞こえた気がした。低く、短く、静かに覚悟を促す一声。
光は目を閉じた。瞼の裏に、明日、己の手で支配すべき大村の赤い水面が、足の裏の感覚として克明に見えていた。




