『雷霆を呑む大地』
第二ターンマークを辛うじて旋回し終えた瞬間。
漆黒の玄武は、確かに一号艇の前に出ていた。だが、その差はわずかコンマ数ミリ。本当に肉眼の限界に迫る、針の穴ほどのリードに過ぎない。
そして福井の怪物、三宅迅はまだ死んでいなかった。牙を剥いたまま、狂暴な速度を維持して背後にぴったりと張り付いている。
ホームストレッチへ向かう最終直線の手前、限界速度域に達した二艇が、大村湾の深く重い水面を文字通り鋭く切り裂いていく。迅の纏う金色の雷撃が、玄武の引き起こした極大の負圧の轍を執念深く走り抜け、漆黒の装甲をバチバチと激しく叩き壊しにかかっていた。
第二ターンで最深の地盤を光に完全に見切られ、外側へと押し出されたはずの迅が、今度は搦め手一切なしの『純粋な雷の速度そのもの』で強硬に捲り返そうとしているのだ。この男の持つ引き出しの多さ、そして泥臭い執念こそが、全国の頂点たる本物の証明だった。
真横から、網膜を灼くほどの電撃の閃光がコクピットへと容赦なく雪崩れ込んでくる。
だが、光の黒曜石の瞳は微塵も揺るがなかった。
「地の真髄は、敵に対抗することじゃない」
光はまっすぐに前を向いたまま、自身の骨の最深部へと冷徹に言い聞かせた。
「すべてを抱いて、丸ごと受け止めることだ」
迅の狂暴な雷撃が、玄武の左舷装甲を完全に舐め回し、融解させようとしたその瞬間――光は避けることも、斥力で弾くこともしなかった。自らの放つ超重力のサーキットをあえて全開にし、その電撃を真っ向から受け止めたのだ。そして、そのまま下関の地底で掴んだ地脈へと、狂わせるような伝導率で一気に接地させた。
ドゴゴゴゴゴッ!!
迅の高電圧のマブイが玄武の船底を激しく走り抜け、大村の水底、そのさらに底に眠る強固な岩盤地帯へと音を立てて流れ込んでいく。雷が、光の魂の『根』そのものへと強制変換されていく。
皮肉なことに、迅が速度を上げて雷の出力を高めれば高めるほど、それを苗床とする光の重力の地盤はより深く、より強固に焼き固められていくのだ。下関の最終戦で勝元麻帆の溶岩を冷やして滑走路へと変えたように――光は今、三宅迅の放つ絶対の雷を、自らの大地を支える楔の根へと変質させていた。
迅はコクピットの中で、自らの最大の武器である雷撃が全く通じない理由を、どうしても理解できなかった。弾き飛ばされた、という感触では決してない。己の放ったはずの雷が、いつの間にかこの男が走るための絶対的な『地面』へと変貌しているような、恐るべき肉体感覚だった。
「な……貴様、一体何をしやがった――ッ!?」
迅の驚愕に引き裂かれた声が、エンジンの轟音を突き抜けて届いた。
光は答えなかった。俺は地だ。世界を、ライバルたちの熱を支える、物言わぬ礎になるだけだ。
運命の最終ターンマークが、目前へと迫る。
大地を踏みしめる足の裏には、大村のドクドクとした生命の鼓動が確かに響いていた。このバックストレッチを死に物狂いで走り抜けながら、光の脳内にはすでに一本の勝利への最短ルートが、確固たる地形として浮かび上がっている。
旋回へと突入した。迅が最後の力を振り絞り、サイド・バイ・サイドで並びかけてくる。持てるすべての雷のマブイを、この一瞬の極点へと叩き込む気だ。
だが光は、その凄絶な旋回軸を最初から内側からの質量で完璧に押さえ込んでいた。
迅の雷が玄武の左舷を激しく焼き焦がし、至近距離の衝撃波で光のヘルメットのバイザーにピキピキと無数のひびが入る。網膜が火花で真っ白に染まる。それでも、地球の核と繋がった足の裏の根だけは、絶対に千切れることはなかった。
その時、迅は自らの速度そのものが、光の引き起こす奇妙な重力場によって底なしの地盤へと変質していくのを肌で感じ取っていた。速く走ろうとマブイを燃やすほど、自らの艇体が重くなる。重くなるほど、大村の深淵へと深く沈み込んでいく。この男の張る大地の根は――追えば追うほど、測ろうとすればするほど、底知れず深くなっていく。
「……っ」
迅の放っていた金色の雷撃が、圧倒的な質量に圧し潰され、不気味なほど静かに鎮火していった。
最終ターンマークを鮮烈にクリアした。
栄光へと続くホームストレッチが、西陽に照らされて目の前に堂々と開けた。
光は進化したスロットルレバーを、自らの骨が軋むほどの力で最後まで力任せに引き絞った。かつて、偉大なる父親が背負いきれずに空へと逃げ出した、あの呪いのような大地の重さ――そのすべてを推進力に変えて、光は水面を爆走する。
父が黄金の翼を造って空へ向かったとき、この泥臭い重さを下関の水面に置いていった。その置き去りにされた質量を、光は拾い上げ、地脈と繋ぎ、己の絶対の根とした。逃げなかった。最深部まで沈みきってみせた。だからこそ今、俺は誰よりも速く、この水面の上に立っている。
乾いた音が一度だけ響き、ゴールブイが右舷を静かに掠め去った。
一着、ゴールイン。
一拍の静寂をおいて、スタンドから巨大な地鳴りのような歓声が押し寄せてきた。津波のような音の質量が、ナイター照明の灯り始めたスタジアムを激しく揺らす。
光はゆっくりとスロットルから手を離し、手甲で顔の血と煤を無造作に拭い去ると、前を向いたままで静かに佇んでいた。
父が逃げ出した大地の重さを背負ったままで、全国の天才たちを力任せにねじ伏せ、完全に走り抜けた。それだけだ。だが、これだけの大勝利を挙げても、未だに求める答えにはなっていない。父・速水誠はまだ脳裏の霧の向こう側にいて、光は未だにその本当の顔を知らない。
骨の底でドクドクと燃え続けるあの命懸けの問いは、消えるどころか、さらに黒く巨大に膨れ上がっている。ただ――今日の激しい走りを経て、光の中で問いの形が、静かにその姿を変えていた。「なぜ俺を見なかったのか」という安っぽい飢えから、「あんたは一体、どこにいるのか」という、絶対王者のその先を見据える反逆の眼差しへ。
パシャパシャと水を弾く音がして、迅の魔戦艇が玄武のすぐ隣へと艇を寄せてきた。重力によって無残に歪んだプロペラからは、役目を終えた最後の電気が弱々しく散っている。金色の瞳が、ヘルメットを脱いだ光の顔をまっすぐに見つめていた。
「……クソが。お前の張ったその根の深さ、俺の自慢の雷じゃ、底まで全く測りきれなかった」
迅は静かに口を開いた。そこには、下関で見せられたような観客の罵声も、安っぽい怒りや悔しさもない。ただの一人の敗者としての、清々しいレーサーの声だった。
「だが、これで終わったと思うなよ。次は、もっと強固な雷をその大地の底まで直接叩き込んで、必ず引き摺り下ろしてやる」
「来い」
光は黒曜石の瞳を向け、変わらないトーンで言い放った。
「お前の放つ雷が深く、鋭いほど――それを引き受ける俺の根は、より遠くまで届く」
足元には、大村の深く冷たい水が静かに触れていた。遥か遠く、下関の闇の中で待つネの声が、確かに届いた気がした。低く、短く、王の誕生を祝福するような、いつもの一声。
その瞬間、電磁干渉から回復したあかりのインカムが、パチッと音を立ててクリアに復帰した。
『光くん――レースの勝敗なんて今はどうでもいいっす! まずその手の傷をこっちに見せるっすよ!』
「後でいい」
『今すぐっす!!』
ピットに戻るなり、般若の形相のあかりが強引にコクピットへと乗り込んってきた。
光が何気なく自身の右手を見ると、防護グローブは高熱の漏電によって黒く焦げ付き、中で皮膚が裂けて血が赤々と滲んでいた。あかりはその無残な傷口を見た瞬間、それ以上は怒ることも、呆れることもしなかった。ただ、痛ましそうに小さく唇を噛み締めながら、慣れた手つきで静かに、しかし誰よりも優しく応急処置を始めるのだった。
親父への、そして世界への命懸けの問いは、未だに光の骨の最深部で不気味に燃え続けている。決して消えない。どれだけ勝ち続けようとも、この飢えが満たされることなどない。
だからこそ――速水光という男は、次なる過酷な水面へと向けて、また何度でも走り出せるのだ。




