「大村の戴冠」
第三部:大村激戦編
第19話「大村の戴冠」
第一ターンマーク。
視界の端にある電光掲示板の赤ランプは、依然として血のように赤く明滅を繰り返している。スタート判定――フライングか、それとも神のジャストか。
だが、速水光はそんなノイズを脳髄から完全にシャットアウトし、前を向いたまま漆黒の玄武を第一ターンマークの懐へと鋭く差し込んだ。
一号艇・三宅迅のインコース。そのわずかな隙間に、吸い込まれるように潜り込んでいく。
二コースから、インのさらに内側へ。浮き上がる軽薄な速度ではなく、水の目方を味方につけて深く深く潜る。大村の強固な水圧を絶対の根とし、最短最速の旋回軌道を刻み込んでいった。
迅のプロペラが撒き散らした暴力的な引き波の底――誰も通ろうとしない、水圧が極まる暗黒の空間に、玄武の機首が無慈悲に滑り込む。
「バカな……俺の引き波を踏み潰して、内側へ――ッ!?」
迅の驚愕の叫びが、エンジンの轟音の彼方へと遠ざかる。
その瞬間、電光掲示板に「正常」の二文字が白々と点灯した。フライングではない。スタートタイミング、コンマ〇〇の極限タッチだった。
『差したァァァ!! 二号艇・速水光、単独先頭ォォッ!!』
先頭。視界が開ける。
だが、すぐ真後ろからは勝元麻帆の放つ凶暴な溶岩の熱波が押し寄せ、丸山優奈の白銀の風が迅の電撃の残滓を巻き込みながら猛烈に追随してくる。大外からは南野杏奈の紅蓮の炎が牙を剥いていた。全員が生きている。誰一人として、光の重力に心を折られてなどいなかった。
二周目、バックストレッチ。
鼓膜を揺らす凄絶な地鳴りがした。三宅迅だ。一マークで完璧に差し抜かれ、先頭を奪われたはずの男が、全身から金色に輝く高電圧の放電を水面へと走らせながら、猛り狂って追い上げてくる。
判断が速すぎる。第一ターンで己の引き波を粉砕されたコンマ数秒後には、すでに玄武を逆転するための別経路を計算し、スロットルを開け直していたのだ。
迅の魔戦艇が、玄武が残した重力の航跡に乗り、真空の吸い込みを利用して急速に距離を詰めてくる。だが、光はスロットルレバーをミリ単位すら緩めない。大地を踏みしめる足の裏には、大村のドクドクとした生命の鼓動が響いている。
迅の雷が光の後流を狂暴に走るほど、その莫大な電気エネルギーは玄武の船底を通り抜け、光の根をより深くへと打ち込むための楔へと変質していく。敵の放つ電撃の速さが、そのまま己を支える頑強な地盤になるのだ。
二マークを抜け、レースは最終周回へと突入した。
驚くべきことに、迅は――最後の最後まで、ただの一度も諦めてはいなかった。勝負の天秤が完全に光へと傾き、勝機が薄いと理解していながらも、彼はただの一瞬もスロットルを戻さなかった。
(この男の本質は、刹那の判断の速さだけじゃない。何があっても、前を向いて走り続ける圧倒的な執念だ)
光はヘルメットの奥で、そのライバルの魂の気高さに心からの敬意を抱いた。
最終周回、第二ターンマーク。
旋回軸に入った瞬間、背後から急激に温度が跳ね上がるのを感知した。勝元麻帆の真紅の艇だ。ドロドロとした溶岩の熱量が、すぐ目と鼻の先まで迫っている。近い。あまりにも近い。
だが、光は決して振り返らなかった。振り返る必要など、どこにもない。大地を踏みしめる足の裏の感覚が、水底を通じて麻帆の張るマブイの根のありかを確かに捉えていたからだ。
下関の激突、地脈の洞での決死の案内、そしてこの優勝戦の進入で彼女が自ら進路を開けた事実――そのすべての闘争の積み重ねが、今や光の張る大地の根の一部として、彼を強力に支えていた。
最終のターンマークを鮮烈にクリアする。ホームストレッチが、目の前に堂々と開けた。
親父は、この重さから逃げ出した。
けれど、俺は、この大地の底に残った。ただ、それだけだ。
その瞬間、世界からすべての音が完全に消え去った。
一瞬だけの、大村湾に訪れた奇跡のような静寂。
轟音の嵐の中で、光の足の裏には、この地球という惑星の揺るぎない、圧倒的な目方だけが確かに残っていた。
号砲が響き、ゴールブイが右舷を静かに掠め去る。
『一着、ゴールイン! 二号艇・速水光!! 大村の絶対イン神話を二コースから完全破壊! 大村新人リーグ、見事に優勝ォォォ――ッ!!』
実況の絶叫が夜空に響き渡る中、光はゆっくりと艇を止め、ヘルメットを脱ぎ捨てた。手甲で顔にこびりついた血と煤を無造作に拭い去り、咆哮を上げるスタンドを、前を向いたままで静かに見つめていた。
父が背負いきれずに逃げ出した大地の質量を背負い、俺は今、全国の頂点で完全に走り抜けた。勝った。完全なる戴冠だ。
それなのに――やはり、偉大なる父親の顔は脳裏の霧の向こう側に隠れたままで、一向に浮かんでこない。骨の最深部で静かに燃え続けるあの地熱の火は、消えるどころか、さらに深く黒く燃え上がっている。
ただ、今日の過酷な死闘を経て、光の中で問いの形が、さらにその姿を変質させていた。
「なぜ俺を見なかったのか」から「あんたは一体どこにいるのか」へ。そして今日、この大村の水を制したことで――「親父は、あの孤独な戦いの中で、一体何を感じていたのか」という、王の孤独を共有せんとする反逆の眼差しへ。
掲示板に着順の電光がガチリと映し出された。二着――三号艇・勝元麻帆。
光はその赤く輝く数字を見つめた。麻帆が、自らのすぐ真後ろでチェッカーを受けていた。
進入の際、彼女がなぜ光のためにコースを譲り、道を開けたのか。その本当の理由が、今なら言葉を使わずとも解る気がした。
速水光という男が、どこまで深く沈み、どこまで遠くへ先に行けるのか――女王は、一人のレーサーとして、その行く末を一番近い特等席で、自らの目で確かめたかったのだ。「もっと深くに来なさい」という、あの日下関で突きつけられた彼女の警告に対する、これが光の肉体で示した絶対の答えだった。
「……ネ。終わったぞ」
光がぽつりと呟くと、遙か遠く、下関の地にいる相棒「ネ」の気配が、確かな地脈の振動を伴って届いた気がした。低く、短く、王の誕生を祝福するような、いつもの一声。
「俺たちの地が、一番高い場所に届いた」
ピット裏のモニター前。人混みの隅で、野田あかりが立ち尽くしたまま泣いていた。オイルと煤で汚れた顔を拭うことも忘れ、声も出さずに、ただただ涙を流している。
光は彼女の元へと歩み寄り、その涙を見つめながらも、何も言わなかった。かけるべき言葉など、どこにもない。ただ隣に立つだけで、彼女が玄武に込めてくれたすべての情熱への、それが最大の報いだと知っていたからだ。
足元には、大村の深く冷たい水が静かに触れていた。
父・速水誠は、まだ、この世界のどこかにいる。骨の底の問いは決して消えない。消えないからこそ――俺は、次なる過酷な水面へと向けて、また何度でも根を張り直せる。
大村の夜空には、数万ルクスのナイター照明が白く、残酷なほど美しく輝き続けていた。この強烈な光の下を、かつて親父がどんな想いで走り抜けたのかは――まだ、わからない。
ただ今日、速水光は走った。親父が逃げ出した、あの圧倒的な地球の重さのすべてを背負って。
それで、今は十分に足りる。
(第三部:大村激戦編、完)




