「深インのゼロ」
第三部:大村激戦編
第18話「深インのゼロ」
二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。
競艇発祥の地にして、日本一のナイター激戦区。
水面は鉛のように鈍く光り、観衆の熱気はピットの気圧を狂わせるほどにひりついていた。速水光は無心で、玄武のコクピットへ深く身体を沈めた。ピットシグナルが、赤く狂おしいリズムで点滅を開始する。
本番開始を告げるファンファーレの重低音が、ピットのコンクリート壁を激しく震わせて響き渡った。そのシグナルと共に、運命の優勝戦を駆ける六艇が一斉に水面へと滑り出した。
その瞬間、大村の水面が物理的な歪みを上げた。四号艇・丸山優奈が放つ白銀の突風が、光の二コースを奪おうとピット離れから容赦なく滑り込んでくる。
だが、光の地脈はそれを拒まなかった。優奈の風そのものを、海底の岩盤へ繋ぎ止めるための「杭」として利用し、強行に接地させたのだ。風は瞬時に死に、ただ圧倒的な重圧だけが水面に残る。
異変は、直後の進入行動で、三号艇・勝元麻帆の艇に起きた。
彼女は三コースのスロー進入を選択せず、あえて艇を大きく下げてダッシュ域へと引いたのだ。
麻帆が起こし位置を引いたことで、内側の迅と光は進入ラインを極限まで前へと押し出される形となった。この水面で最も速く、光を追い詰める権利を持つはずの溶岩の女帝が、なぜ。その疑問すらも光は思考の表層から削ぎ落とし、地脈の中に溶かした。
「この二コースは、俺とあかりさんが掴んだ特等席だ。一ミリも譲らない」
光は迷わず二コースを主張し、深インへと艇を据えた。優奈の強襲を抑え込み、麻帆が引いたことで生じた進入の歪み。結果として立ち現れたのは、大村名物とも言える、助走距離わずか九十メートルの超極限「深イン」だった。
『深い! スタートラインまで残り九十メートル! 一号艇と二号艇、助走距離わずか九十メートルの深インだ――ッ!!』
実況の声が悲鳴のように響く。高密度の海水がカウリングを圧し潰し、全艇の運動性能を殺しにかかる。
だが光にとって、これは悪夢ではない。助走が九十メートルしかないのなら、その九十メートル分だけ、誰よりも深く底へ沈めばいいだけだ。
一号艇の三宅迅が、殺気立った目でこちらを睨みつけてくる。
「助走がなくても、俺の雷を直接プロペラに乗せれば足りる。光、二コースから俺の特大の引き波を拝んでな」
光は答えなかった。ただ前だけを見つめた。
スタート、一秒前。
光の足の裏に、大村湾の底から突き上げてくる巨大な鼓動があった。九十メートルの水圧のすべてが、今、玄武を射出するための「根」に変換されている。
(――親父、見ていてくれ。これが俺の『ゼロ』だ)
光はスロットルを、限界のその先、魂の領域まで一瞬だけ戻した。
沈む。九十メートル分、地球の深淵まで。
ここだ。
大村の水面が、凄絶な重低音とともに粉々に砕け散った。
玄武が弾き出される。九十メートルの重い水圧を踏み台にした黒き弾丸が、スリットラインへ向かって咆哮を上げて走る。深く沈んだ分だけ、弾けるように遠くへ飛ぶ。これが光の「ゼロ」の加速。水面で魂をぶつけ合い、属性を喰い合ってきたライバルたちの熱が、光の根の中で激しく脈動していた。
『スタートしました! ……おっと、二号艇・速水光、早い! 飛び出したか!? ただいまスタート判定中! お手持ちの舟券はお捨てにならないよう、大切にお持ちください!!』
電光掲示板の「スタート判定中」のランプが、血のように赤く点滅し続ける。スタンドの一万人の息が止まった。
光は第一ターンマークを目前に控え、前を向いたまま、誰にともなく断言した。
「フライングじゃない」
根拠を語る言葉はない。ただ――足の裏が知っていた。
大村の水圧の底、地脈の鼓動が最も高まった瞬間に、己の魂の時計が完璧に重なったことを。コンマ数ミリの直感が、すでに完全なる正常スタートを告げていた。
迅の白い一号艇が真横に迫る。放たれる雷撃が、水面を焦がしながら玄武の左舷を舐めるように走る。白い第一ターンマークが、漆黒の壁のように目前へと迫ってきた。
背後には、勝元麻帆の不気味な気配があった。
溶岩の熱が、ダッシュ域から光をじっと見つめている。彼女は何を見ているのか。光の走りを、この命の駆け引きを、一体どこまで測っているのか。
判定ランプは、まだ赤く点滅している。
だが光は、そんなものを待つ必要などどこにもなかった。走り続けることだけが、自分に残された唯一の答えだ。父が逃げ出したあの大地の重さを背負って、今日も俺は水の上を走っている。
第一ターンマークへの直線が、目の前に堂々と開けていた。
足の裏には、大村のドクドクとした鼓動がある。骨の底で、親父への終わりなき問いが燃えている。それだけで――この死闘を勝ち抜くには、十分すぎるほど足りていた。




