「横一線——大地は、怒鳴らない」
沈む。
第二ターンマークの手前、大村湾の海底地形が急激に落ち込む断層の境界。
水圧が一段と深く、目方を増して戦艇を押し潰そうとするポイント。光の足の裏は、その漆黒の『底』を完璧に捕捉していた。
玄武の船底が限界まで沈み込んだ刹那――溜め込まれた地球の質量が、爆発的に弾き出された。地脈の洞で掴んだ反逆のバネが解放される。強烈な斥力によって船底が水面を離れ、玄武は弾丸のごとき超加速でバックストレッチへと躍り出た。
だが、光が前を向いた瞬間、真後ろで大村湾の空気がバリバリと狂暴に鳴り響いた。
三宅迅だ。第一ターンマークで大外から完全に圧殺され、引き波に弾かれたはずの男が、信じがたい執念で戦線を立て直していた。
全身から金色に輝く高電圧のマブイが溢れ出し、周囲の海水を電気分解して真っ白な泡に変えながら、異形の速度を叩き出してくる。弾かれた衝撃そのものを逆手に取り、玄武の後流に発生した負圧の流れに乗って限界を超えて加速してきたのだ。この刹那の判断の速さ、やはりこの男もまた本物だった。
凄まじい轟音が背後から迫る。
迅の魔戦艇が玄武の真後ろ、プロペラの生み出す真空の隙間へと強硬に食い込んでくる。真横から容赦なく浴びせられる電気振動が、光の繋ぐ地脈のサーキットを内側から激しく掻き乱した。右手のグローブがバチバチと火花を散らして痺れる。激しい電磁漏電だ。
それでも、光の右手はスロットルレバーからミリ単位すら離れなかった。
水面で魂をぶつけ合い、地下の深淵で己の輪郭を繋ぎ止めてくれた者たちの圧倒的な重さが、極限状態の今――光の肉体の中で確かに生きていた。
迅が並んだ。サイド・バイ・サイド。
金色の瞳が、玄武のコクピットにいる光を直接睨みつけてくる。だが、その迅の瞳が、一瞬だけ驚愕に大きく見開かれた。彼には見えたのだ。光の背後にそびえ立つ、目に見えない巨大な『質量』の影が。
「一人で走ってるんじゃねえ……こいつ、背後に誰を背負ってやがる……ッ!?」
迅の戦慄の入り混じった声が、駆動音の嵐を通り抜けて届いた。
絶対王者だった親父は、かつてこうして誰かに背後から追われたとき、一体何を感じていたのだろうか――という淡い問いが、光の内側で一瞬だけ灯る。答えなど出ない。光は何も言わず、ただ不器用に進化したスロットルを握り直した。
『光くん、これ以上は両方のマブイが干渉して消し飛ぶっす――レバーを戻して――』
あかりの悲痛な叫びが、パチィン、という不快なノイズと共に遮断された。強烈な電磁干渉。インカムの回線が完全に落ちる。
その瞬間、世界から音が消えた。
轟音のただ中に訪れた、不気味なまでの静寂。
迅の放つ超高電圧の雷と、光の体中から溢れる超重力が極限状態で競り合い、周囲の空間そのものを圧し潰してすべての音波を消滅させているのだ。時速百キロに迫る極限の速度域、火花と重力場だけが支配する、二人だけの隔離された世界。
「光、次は第二ターンマークだ! そのハンドルごと、俺の速度で焼き切ってやる!!」
インカムが落ちてなお、迅の声は鼓膜へと直接届いた。二艇の距離が、それだけ肉肉しいほどに狂暴に近い。
光はまっすぐに前を向いたまま、静かに声を漏らした。
「来い、迅。お前の雷が深く、鋭いほど――それを引き受ける俺の根が届く」
叫ばない。怒鳴らない。大地は、決して怒鳴らない。ただそこに質量として存在するだけだ。
運命の第二ターンマークが、目前へと迫る。
迅と光が、完全に横一線。どちらのレーサーもスロットルを戻す気など微塵もない。迅は外側から電撃の結界で覆い被さろうとし、光は内側から海底の岩盤へと深く根を張ろうとしていた。
二つの相容れない戦術が、旋回の絶対軸を巡って真っ向から激突しようとしている。
だが、大地を踏みしめる足の裏には、大村のドクドクとした鼓動が確かにあった。
迅の激しい雷が水面を走った後の『焼け跡』――電気分解され、わずかに変質した海水の密度の変化。その歪みこそが、光の地脈にとっては、より深く、より強固に楔を打ち込める絶好の地盤(苗床)となる。
皮肉なことに、迅の雷が強ければ強いほど、光の根はより深く、大村の底へと突き刺さっていくのだ。
旋回へと突入した。迅が外側から狂暴に被せてくる。
青白い放電が玄武の左舷装甲を無残に舐め回し、カウリングがバチバチと悲鳴を上げて鳴く。
それでも、漆黒の玄武は自らの描く旋回軸からコンマ一ミリのブレすら見せなかった。足の裏の根が、大村の揺るぎない地盤を完璧に掴み、固定している。
コンマ数ミリ――光の漆黒の機首が、迅の魔戦艇を内側からの質量で強引に押し出した。
わずかだ。本当に、肉眼では判別できないほどの、わずかな一押し。しかし、それだけで十分だった。迅の放ていた電撃の旋回軌道が、コンマ数度だけ外へと逃げ、歪んだ。
一瞬の隙。光の玄武が、確実に前に出た。
「まだだ――ッ!!」
迅の悔しげな咆暴が、背後へと置き去りにされていく。光は答えなかった。
第二ターンマークを抜けた先、勝利へと続くストレートなホームストレッチが、今、目の前に鮮烈に開けていた。
足の裏には、大村の確かな生命の鼓動が脈打っている。親父への命懸けの問いが、骨の最深部で静かに、激しく燃え続けている。
これで勝ったわけじゃない。俺たちはまだ、水の上を死に物狂いで走っている。
ただ――今、俺が奴らの前にいる。




