「ゼロ——九十メートルの水圧を、根にする」
二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。
競艇発祥の地にして、日本一のナイター激戦区。
水面は鉛のように鈍く光り、観衆の熱気はピットの気圧を狂わせるほどにひりついていた。速水光は無心で、玄武のコクピットへ深く身体を沈めた。ピットシグナルが、赤く狂おしいリズムで点滅を開始する。
「ウウウウウウウ――ッ!!」
本番開始を告げるファンファーレが響き渡る。その咆哮と共に、運命の優勝戦を駆ける六艇が一斉にピットを離れた。
その瞬間、大村の水面が物理的にねじれた。四号艇・丸山優奈が放つ白銀の突風が、光の二コースを奪おうとピット離れから容赦なく滑り込んでくる。
だが、光の地脈はそれを拒まなかった。優奈の風そのものを、海底の岩盤へ繋ぎ止めるための『杭』として利用し、強制的に接地させたのだ。風は消え、ただ圧倒的な重圧だけが水面に残る。
異変は、直後の進入行動で、三号艇・勝元麻帆の艇に起きた。
彼女のスロットルが――動かない。
麻帆は三コースの定位置から光の二コースを強襲するのではなく、わざと大きく艇を引き、光のために道を開けたのだ。
この水面で最も速く、光を追い詰める権利を持つはずの女王が、なぜ。その疑問すらも光は思考の表層から削ぎ落とし、地脈の中に溶かした。
「この二コースは、俺とあかりさんが掴んだ特等席だ。一ミリも譲らない」
光は迷わず二コースを死守した。だが、優奈の強襲と麻帆の減速が噛み合ったことで、インコースの進入ポイントは深刻な歪みを引き起こした。強引な割り込みによる壮絶なコースの奪い合い。結果として立ち現れたのは、大村名物とも言える、助走距離わずか九十メートルの『深イン』だった。
「深い! スタートラインまで残り九十メートル! 大村名物の極限の深インだぁぁぁ!!」
実況の声が悲鳴のように響く。高密度の海水がカウリングを圧し潰し、全艇の運動性能を殺しにかかる。
だが光にとって、これは悪夢ではない。助走が九十メートルしかないのなら、その九十メートル分だけ、誰よりも深く底へ沈めばいいだけだ。
一号艇の三宅迅が、殺気立った目でこちらを睨みつけてくる。
「助走がなくても、俺の雷を直接プロペラに乗せれば足りる。光、二コースから俺の特大の引き波を拝んでな」
光は答えなかった。ただ前だけを見つめた。
スタート、一秒前。
光の足の裏に、大村湾の底から突き上げてくる巨大な鼓動があった。九十メートルの水圧のすべてが、今、玄武を射出するための『根』に変換されている。
(――親父、見ていてくれ。これが俺の「ゼロ」だ)
光はスロットルを、限界のその先、魂の領域まで一瞬だけ戻した。
沈む。九十メートル分、地球の深淵まで。
ここだ。
「ドッバゴォン――ッ!!」
大村の水面が砕け散った。
玄武が弾き出される。九十メートルの重い水圧を踏み台にした黒き弾丸が、スリットラインへ向かって咆哮を上げて走る。深く沈んだ分だけ、弾けるように遠くへ飛ぶ。これが光の『ゼロ』の加速。水面で魂をぶつけ合い、属性を喰い合ってきたライバルたちの熱が、光の根の中で激しく脈動していた。
『スタートしましたァァ!! ……おっと、二号艇・速水光!! 早い!! 飛び出したか!? 現在、スタート判定中!! お手持ちの投票券は大切にお持ちください!!』
電光掲示板の『スタート判定』のランプが、血のように赤く明滅し続ける。スタンドの一万人の息が止まった。
光は第一ターンマークを目前に控え、前を向いたまま、誰にともなく断言した。
「フライングじゃない」
根拠を語る言葉はない。ただ――足の裏が知っていた。
大村の水圧の底、地脈の鼓動が最も高まった瞬間に、己の魂の時計が完璧に重なったことを。コンマ数ミリの直感が、すでに完全なる正常スタートを告げていた。
迅の白い一号艇が真横に迫る。放たれる雷撃が、水面を焦がしながら玄武の左舷を舐めるように走る。白い第一ターンマークが、漆黒の壁のように目前へと迫ってきた。
背後には、勝元麻帆の不気味な気配があった。
溶岩の熱が、あえて距離を置いた位置から光を見つめている。彼女は何を見ているのか。光の走りを、この命の駆け引きを、一体どこまで測っているのか。
判定ランプは、まだ赤く明滅している。
だが光は、そんなものを待つ必要などどこにもなかった。走り続けることだけが、自分に残された唯一の答えだ。父が逃げ出したあの大地の重さを背負って、今日も俺は水の上を走っている。
第一ターンマークへの直線が、目の前に堂々と開けていた。
足の裏には、大村のドクドクとした鼓動がある。骨の底で、親父への終わりなき問いが燃えている。それだけで――この死闘を勝ち抜くには、十分すぎるほど足りていた。




