表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇【白銀の波切り、魂のフルスロットル】  作者: 水前寺鯉太郎
第二部 大村戴冠編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/99

「ゼロ——九十メートルの水圧を、根にする」

二〇五二年、五月。長崎県、ボートレース大村。

 競艇発祥の地にして、日本一のナイター激戦区。

 水面は鉛のように鈍く光り、観衆の熱気はピットの気圧を狂わせるほどにひりついていた。速水光は無心で、玄武のコクピットへ深く身体を沈めた。ピットシグナルが、赤く狂おしいリズムで点滅を開始する。


「ウウウウウウウ――ッ!!」


 本番開始を告げるファンファーレが響き渡る。その咆哮と共に、運命の優勝戦を駆ける六艇が一斉にピットを離れた。

 その瞬間、大村の水面が物理的にねじれた。四号艇・丸山優奈が放つ白銀の突風が、光の二コースを奪おうとピット離れから容赦なく滑り込んでくる。

 だが、光の地脈はそれを拒まなかった。優奈の風そのものを、海底の岩盤へ繋ぎ止めるための『杭』として利用し、強制的に接地させたのだ。風は消え、ただ圧倒的な重圧だけが水面に残る。


 異変は、直後の進入行動で、三号艇・勝元麻帆の艇に起きた。

 彼女のスロットルが――動かない。

 麻帆は三コースの定位置から光の二コースを強襲するのではなく、わざと大きく艇を引き、光のために道を開けたのだ。


 この水面で最も速く、光を追い詰める権利を持つはずの女王が、なぜ。その疑問すらも光は思考の表層から削ぎ落とし、地脈の中に溶かした。


「この二コースは、俺とあかりさんが掴んだ特等席だ。一ミリも譲らない」


 光は迷わず二コースを死守した。だが、優奈の強襲と麻帆の減速が噛み合ったことで、インコースの進入ポイントは深刻な歪みを引き起こした。強引な割り込みによる壮絶なコースの奪い合い。結果として立ち現れたのは、大村名物とも言える、助走距離わずか九十メートルの『深イン』だった。


「深い! スタートラインまで残り九十メートル! 大村名物の極限の深インだぁぁぁ!!」


 実況の声が悲鳴のように響く。高密度の海水がカウリングを圧し潰し、全艇の運動性能を殺しにかかる。

 だが光にとって、これは悪夢ではない。助走が九十メートルしかないのなら、その九十メートル分だけ、誰よりも深く底へ沈めばいいだけだ。


 一号艇の三宅迅が、殺気立った目でこちらを睨みつけてくる。


「助走がなくても、俺の雷を直接プロペラに乗せれば足りる。光、二コースから俺の特大の引き波を拝んでな」


 光は答えなかった。ただ前だけを見つめた。

 スタート、一秒前。

 光の足の裏に、大村湾の底から突き上げてくる巨大な鼓動があった。九十メートルの水圧のすべてが、今、玄武を射出するための『根』に変換されている。


(――親父、見ていてくれ。これが俺の「ゼロ」だ)


 光はスロットルを、限界のその先、魂の領域まで一瞬だけ戻した。

 沈む。九十メートル分、地球の深淵まで。

 ここだ。


「ドッバゴォン――ッ!!」


 大村の水面が砕け散った。

 玄武が弾き出される。九十メートルの重い水圧を踏み台にした黒き弾丸が、スリットラインへ向かって咆哮を上げて走る。深く沈んだ分だけ、弾けるように遠くへ飛ぶ。これが光の『ゼロ』の加速。水面で魂をぶつけ合い、属性を喰い合ってきたライバルたちの熱が、光の根の中で激しく脈動していた。


『スタートしましたァァ!! ……おっと、二号艇・速水光!! 早い!! 飛び出したか!? 現在、スタート判定中!! お手持ちの投票券は大切にお持ちください!!』


 電光掲示板の『スタート判定』のランプが、血のように赤く明滅し続ける。スタンドの一万人の息が止まった。

 光は第一ターンマークを目前に控え、前を向いたまま、誰にともなく断言した。


「フライングじゃない」


 根拠を語る言葉はない。ただ――足の裏が知っていた。

 大村の水圧の底、地脈の鼓動が最も高まった瞬間に、己の魂の時計が完璧に重なったことを。コンマ数ミリの直感が、すでに完全なる正常スタートを告げていた。

 迅の白い一号艇が真横に迫る。放たれる雷撃が、水面を焦がしながら玄武の左舷を舐めるように走る。白い第一ターンマークが、漆黒の壁のように目前へと迫ってきた。


 背後には、勝元麻帆の不気味な気配があった。

 溶岩の熱が、あえて距離を置いた位置から光を見つめている。彼女は何を見ているのか。光の走りを、この命の駆け引きを、一体どこまで測っているのか。

 判定ランプは、まだ赤く明滅している。

 だが光は、そんなものを待つ必要などどこにもなかった。走り続けることだけが、自分に残された唯一の答えだ。父が逃げ出したあの大地の重さを背負って、今日も俺は水の上を走っている。


 第一ターンマークへの直線が、目の前に堂々と開けていた。

 足の裏には、大村のドクドクとした鼓動がある。骨の底で、親父への終わりなき問いが燃えている。それだけで――この死闘を勝ち抜くには、十分すぎるほど足りていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ