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ひと足早く夏が立つかのように、草いきれから青く蒸れた匂いが立ち上る。
珍しいものを見るために迂回して大河を渡った一行は、戻ることを選ばず、そのまま進むことにした。その眼前に、湖が広がる。
湖面を緑の葉と花々が埋め尽くしている光景は幻想的でうつくしい。しかし、湖底に根を張ったそれらは、近づく小舟のそれ以上の侵入を拒むのだという。そのせいか、大分安くで小舟を買い取ることができた。
「本当に葉っぱで覆われているね」
「どうしようか」
ともかく、行ってみようと湖に滑り出た小舟に乗った一行は、白や紫の花々と濃い緑の葉が広がる景色に、今はうつくしさよりも厄介さを感じる。勝手なものである。
「下手に突っ込むと、茎や葉に絡めとられて転覆することもあるそうだ」
「オールを使えないだろうしな」
ケッティの言葉に忌々し気に言うワンダフルさんは、アインスの力を見せつけられても、オールを扱うのを押し付けたりせず、自分の役目とばかりに自然に漕いでいた。犬族の中でも大型の種族であるワンダフルさんはそれだけ力があり、ひと漕ぎするごとにぐんぐん進む。
ユリが片前足をそっと水面につける。ソウタも同じように片前足を伸ばし、水面を覆うように広がる葉に触れてみた。とたんに、ふるふると葉と花とが震えた。
「ソウタ、ユリ、前足を引き上げろ」
ワンダフルさんが鋭い声を発する前に、ふたりは前足を持ち上げていた。ワンダフルさんはオールを操ってボートを後方へ下げた。
そして、みなが見た。
緑の葉と赤い花の真ん中がすうと空く。まるで道を通していくように、するすると向こう側まで水面が見える。
「「「「?!」」」」
一行は声もなくその光景に見入った。
「葉と花が移動した?」
「まるで避けてくれたみたいね」
「これはあながち、冗談じゃないかもしれないな」
「ああ。ふたりに反応して葉と花が避けて水路を作ったみたいだな」
ソウタとユリの言葉に、ワンダフルさんとケッティが興奮を隠しきれない様子だ。
「ソウタとユリはとうとう植物までも手玉———じゃなかった、手綱を取り出したのか?」
先だって諫められた通り、表現を変えるディレクさんに、アインスは満足そうにうなずくが、そうではないだろう。
「違うと思う。ええと、そうだな。ほら、妖精の路みたいな感じじゃない?」
「ああ、そうか。許可があれば通れるってやつね」
「なるほど。妖精の女王から妖精の友と認定されているからな」
思い付きで言ってみたことを、ユリが補完し、ケッティがそれで納得してしまった。
「そうか? 俺がつついてもこうはならなかったような気がする」
ワンダフルさんはそう言いながらも、せっかくできた水路が閉じる前に、とぐいぐいオールを漕ぐ。
「お前ら、面白いなあ」
『素晴らしい方々です。さすがは妖精国に認められ、妖精の至宝の守護を受けた方々ですね』
こんな何者をも寄せ付けぬ強固な自然をたやすくすり抜けてしまうことに、ディレクさんは笑い交じりで身じろぎし、それに手を添えるアインスは彼らと出会うことができた僥倖をしみじみと噛みしめる。
「え、ぼくたちもアーミィに守護されているの?」
「フェレット族一家だけじゃない? あ、でも、トムさんとカントさんも美味しい物をたくさんつくってくれるから、守護されていそうね」
「それとニャントロフな」
ソウタとユリに、ワンダフルさんはにやりと笑う。
「「ニャントロフさん!」」
そうだ、なぜニャントロフさんを忘れていたのか。ケッティも確かにそうだと深く頷く。
「そうだな。まず間違いなく、ニャントロフはアーミィの守護を得ているだろう」
「ああ、あの大柄な猫族な。アーミィとフェロとフェンの布団な」
『マスター、失礼ですよ』
今回ばかりは諫めるアインスの声が噴き出すのを堪えたものだから揺れる。
「でもさ、だったら、ディレクさんもできるんじゃない?」
「そうだよね。明確に守護するって言っていたらしいものね」
ソウタとユリが嫌なことに気づいてしまったとばかりにディレクさんの声が苦る。
「いやな? 試してみようなんて思うなよ? 妖精の至宝の幸運なんて、取りようによっちゃ、どっちに転んでもおかしくないものだ。それはアーミィのせいでもなんでもない。第一、俺はアーミィを含め、あの農場牧場のやつら全員、いや、あそこの土地全部が守られていたらそれでいいよ」
ソウタとユリは目を見合わせる。そして、自分たちもそうだと言った。ワンダフルさんもケッティも、そしてアインスも、そう願っていると話した。
ソウタとユリは、こういうディレクさんだからこそ、アーミィの守護というのは彼に向けられているのではないだろうかと思う。
湖を渡った向こう岸に着いた後、一行は地図を広げて現在地と目的地を確認する。
「今日はここで野宿だな」
「じゃあ、枯れ木を見つけて来なくちゃ」
「湖に魚がいたら釣るのになあ」
言いながら、ユリが【爽やかなカキドオシ】の粉末をリュックから取り出す。これは清涼感のある香草で、魚や肉の臭み消しとなり、スープやサラダにも加えるスパイス的な役割を果たす。
「悪いものに抗う力を持っているから、悪霊が現れたときに投げつけてやると良い」などとトムさんが言って粉末を渡してくれたのだが、どこまで本気か分からない。
みなで手分けして野宿の準備をしていたとき、低木の茂みが揺れた。ワンダフルさんやアインスは少し離れた場所にいた。ケッティがとっさに杖を掴む。
「えい!」
ユリは茂みからなにかが現れたとたん、鍋に入れようとしていた【爽やかなカキドオシ】の粉末ひとつかみをそちらへ向けて投げつけた。ソウタはトムさんが言っていたことを思い出し、おそらくユリもそうなのだろうと考えた。
「きゃあ!」
「「え?」」
高い悲鳴にソウタとユリは戸惑った声を上げる。ケッティがその姿を見て驚く。
「カバ族?」
「大丈夫か?」
『何者ですか?』
駆け付けてきたワンダフルさんがソウタたちを案じ、アインスが現れた者に誰何する。
「ご、ごめんなさい、湖に入ろうと思ったのだけれど、驚かせてしまったわね」
「こちらこそ、とっさに投げつけてごめんね。でも、毒とかそんなのじゃないから。大丈夫?目はなんともない?」
謝罪と順当な理由に、ソウタもまた謝り、相手の心配をする。
こういうとき、ソウタは自分がやったのではないなどと言わず、真っ先に謝り、相手のことを気に掛ける。ユリもすぐに頭を下げた。
みなが名乗った後、カバ族の女性は恥ずかしそうにした。
「わたしには名前がないの」
彼女はカバ族の運搬業者の一員だという。
「両親は気が付いたらいなかったの。それで、わたしは小さいころからグズでなにもできないから、「このカバ!」としか呼ばれていなくて、」
言葉に詰まった。ソウタとユリはひどい話だとこっそり憤る。それならば。
「そっか。じゃあ、ぼくたちはなんて呼ぼうか」
「うーん。ねえ、ケッティ、カバってほかの地方では別の名前がある?」
「そうだな。ヒポポタマスとかイポポタムとかフロスピァドとか」
やはり、ケッティはいろんなことを知っている。
「え? あら?」
カバ族の女性はどんどん進んでいく話について行けないでいる。この成り行きにすっかり慣れたワンダフルさんは野宿の準備を続け、ディレクさんは面白そうに見物している。そのディレクさんはもちろん、アインスのクラバットの結び目の上だ。
「ヒポポタマス、イポポタム、フロス———?」
ケッティが教えてくれた名称を繰り返すうち、難しい音を忘れかけるソウタに、ユリがあっさり言う。
「じゃあ、ヒッピィは?」
農場妖精トムテはトムさん、ケット・シーはケッティ、クー・シーはクッシィ、アーミンはアーミィと名付けたふたりだ。順当である。
「うん、それが良いね。ね、ぼくたちはあなたをヒッピィと呼んでも良い?」
「え、ええ、もちろんよ」
言いながら、じわじわと嬉しさがこみ上げて来てカバ族の女性ヒッピィははじめて名前をもらったと喜んだ。




