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ルジェクといっしょに、ただ農場牧場を歩くだけで楽しかった。体温が伝わって来るほどの近くであれば、ちょっとした折に触れそうになる。鼓動が早まり、宝石姫はそっと胸を抑えた。
「疲れましたか?」
「い、いいえ」
ルジェクは宝石姫の様子をよくよく気に掛けてくれるやさしい人族だ。宝石姫を連れて行こうとした妖精攫いも彼と同族だったが、人族にもいろいろな者がいるのだ。
ルジェクは必要以上に宝石姫に過保護に接することはなかった。それは妖精の国の国王夫妻の娘である宝石姫を、パフォーマンスとして大事にするアピールに使うからではないのだと思わせ、より一層好ましく思えた。
「ここは素晴らしい場所ですね。うつくしい土地、豊かな農場牧場、多様な食材、滋味たっぷりの食事。こんなに恵まれた場所があるとは」
ルジェクが視線をどこか遠くへ彷徨わせた。その引き締まった横顔が不思議なことに決意と迷いを混在させている気がした。同時に、憧憬と諦念も垣間見える。ふいにルジェクがどこか手の届かない場所に行ってしまいそうな気がし、なにか言おうとして口にすべき言葉が見つからなかった。こういうとき、コミュニケーション能力不足を痛感する。経験不足だ。
宝石姫はそっと呼吸を整える。
向こうの方を、フェレット族兄弟の年少三人が可愛らしい歓声を上げながら駆けて行く。ルジェクもまたそちらを見やり、とてもやさしい眼差しになる。
「あの子らのしあわせがいつまでも続くことを願ってやみません」
「本当にそうですわね。幼い子が健やかに暮らす。なににも代えられない大切な事柄ですわ」
フェレット族兄弟はこのトムの農場牧場へ来るまでは苦労を重ねてきたそうだ。ルジェクもそれを聞き知ったのだろう。
そう思って言うと、ルジェクがふいに宝石姫に視線を移し、ふ、と微笑んだ。思わず顔を伏せる。熱さを感じることから、紅潮している面を上げられずにいると、礼儀正しくからかうことなく、ただ歩みをゆっくりとしたものに変化させた。
ルジェクは頭が良く、薬や植物に造詣が深い。農場妖精トムテと出会って身を震わせて喜んだと聞く。そして、ここに住むようになったカンガルー族の薬師カントとも話が合う様子だ。
知識ある者というのは貪欲なのだろうか、ルジェクはなんにでも興味を示した。
尊敬するトムが病にかかり、ソウタとユリ、ワンダフルが妖精の国で薬のレシピを得て、それをもとにカントが薬を作成し、完治したという話は色んな者から繰り返し聞いていた。何度聞いても冷静な彼にしては高揚を隠せないでいるのがちょっと微笑ましくも思われる。
宝石姫にも妖精について尋ねた。だからこそ、今こうやってふたりで歩くという時間が持てるのだ。
「ケット・シーというのはとても気難しいと聞きましたが、こちらに来て、その考えが覆りました」
ルジェクがどこか楽しそうに言う。
「わたくしもですわ。彼らは妖精でありながら、国王陛下や女王陛下に従いつつも完全な服従を望みません」
そして、それが許されている一族なのである。
「彼らのステップによって作られる妖精の環は独特なもののようですね?」
「はい。妖精の路とは性質を異にします」
妖精の路は決められた手順によって足を踏み入れることができる。
「中にはそれを作った者の許可を得た者、あるいは認められた者しか通ることができません。しかし、ケット・シーの妖精の環はそうであると同時に、彼らと面識がない者でも、彼らが興味を持ちそうな者であれば本来の効力を発揮をすることもあるのです」
さらに言えば、効力を発揮する条件はころころ変わる。それは気まぐれなケット・シーたちならではと言えた。面白いことを好むケット・シーらしい現象に、ルジェクの目が活き活きと輝く。
「そして、妖精の路も妖精の環も、時と場合によってはまったく異なる場所に迷い出たり、あるいはずっと彷徨う羽目になる、というのですね」
「そうです」
ルジェクは単に妖精の不思議を聞いて楽しんでいるだけだ。けれど、目を輝かせる彼の顔を間近で見ていると、宝石姫は胸が高鳴り、どうすれば良いか分からなくなってくる。
ルジェクはそんな宝石姫の様子をすぐに見て取って言う。
「なんだか、元気がないご様子ですね。そうだ、トムさんは素晴らしい植物を育てられるから、それらでバスオイルを作りましょうか。すがすがしい気持ちになりますよ」
「まあ!」
宝石姫のために、調合してくれるというのに、ほほを紅潮させる。
「【癒しのコンコンソウ】という妖精素材がありましてね」
ルジェクは以前、コンコンソウを扱ったことがあるが、それに比べても【癒しのコンコンソウ】の効力は素晴らしいという。
「コンコンソウは別名でヒレヒレソウというのです」
「ほかの名称がありますのね」
「そうです。下葉が魚のヒレのように見えるからそう名付けられたんです。コンコンソウも【癒しのコンコンソウ】もバスオイルにするには土臭い匂いがするので、精油を加えます」
そんなふうな気遣いをも見せるのが宝石姫には嬉しい。
「迷迭香かメリッサを加えるのです」
「迷迭香? どんなものでしょうか?」
不思議な響きを持つ言葉に、宝石姫は質問する。
「甘く爽やかな芳香で———いえ、メリッサを使いましょう。ちょうどトムさんが【すがすがしいメリッサ】を育てていました」
レモンのようなさわやかな香りがして、気持ちを落ち着けてくれるのだというルジェクに、なぜ迷迭香ではいけなかったのかと不思議に思う。それでも、しつこく詮索することは憚られた。ありていに言えばそれでうっとうしく思われるのが怖かったのだ。
そうしてルジェクが渡してくれたバスオイルはもったいなくて使えないでいた。詰められた小瓶もうつくしいガラス製で、日に透かすときらきらと虹色に輝いた。そう見えるのはガラスのカットのせいだが、中のオイルが輝きを発しているかのように思われた。
守護犬からそうと聞いたものか、ルジェクはいつでも作るし、そう長くは品質を保てないから使ってくれと柔らかく苦笑した。
意を決して使ってみたところ、とても爽やかで気持ちが落ち着く感じがした。
宝石姫は嬉しく思うと同時に、してもらってばかりで自分もなにか返したいと思った。その通りにルジェクに言えば、いろいろ教わっているのだから、そのお礼だと笑った。
そこで、宝石姫は自分が知ることを全て伝えようと思った。なにより、興味を持って自分の話に耳を傾けてくれることに喜びを感じていた。
そんなふうに心躍る時間を過ごしていたものの、時を経るにつれ、どうにも気になって、後から迷迭香というものについてトムやカントに尋ねた。
「迷迭香は古名で、本来は海の雫と言うのですが」
「迷迭香は迷い通り過ぎる、あるいは逃げると言う意味があるから、あまり用いられなくなったんだ」
カントやトムが戸惑ったように答え、どこからその名を知ったのかと聞かれたものの、言葉を濁した。
わざわざ古い名前が出て来るなどとは、ルジェクはなにを迷い求めているのだろうか。あるいは、逃げだしたいと思っているのだろうか。
そして、そのとき宝石姫がルジェクに対してもっと踏み込んでいれば、あんなことにはならなかったのだろうか。
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