対人依存症5(お前が憎くて殴ったわけじゃない)
物心ついたときには自分に対する否定の言葉が降りかかっていたし、拳も降り注いできた。何をするにも、始めるにも続けるにも、全部「どうせお前なんか」と言われ続けてきた。逆らえば当然ぶん殴られる。
ひとしきり気が済むまで暴れ、怒鳴り、殴り蹴飛ばしたあとで、決まって吐きかけられたフレーズが副題の「お前が憎くて殴ったわけじゃない」だ。
似たようなパターンで、お前が間違ってるとは思わない、とか、お前が嫌いでやったんじゃない、とかもある。まあ全部ウソというか、何も考えずに暴れた後で出てくる暴力的衝動の残りカスみてえなものが、たまさか言葉という形で出てきただけだ。
いちばん自分自身への疑念も猜疑も持たずに生きていられるガキの時分がそれでは、自己肯定感なんてものも育つわけがない。そんな言葉が世の中で幅を利かす前から、そもそも自分の中に欠片も育たなかった…種は蒔かれたかもしれないが育つ前にぐじゃぐじゃに畑を荒らされていたのだろう。家庭内暴力なんていうものは何も本当に殴る蹴る引き摺り回すだけじゃなく、怒鳴ったり耳元で大声を出したり殺すぞとかシバくぞとか脅すだけでもなく…日常的にそうやって相手を精神的に否定することで抑圧して言うことを聞かせようとしていたことも含まれると思う。
今からでも幾らか取れないもんだろうか…。
そんな子供の頃だった。自己肯定感なんて言葉を気にしている時点で、そんなものは自分の中にありゃしない。だってそうじゃないか。自分で自分が好きであるのが当たり前の人に自己肯定感なんて言ったってわかりゃしない。そいつにとっては空気を吸って吐いてるのと同じことだからだ。交通マナーの悪い街ほど道路に啓発看板が多いのと同じだ。
そんな風に、自分で自分を認められないことから逃げ続けている。辛いことから逃げたっていい。辛い時は逃げればいい。と他人に言う奴ほど、自分がそんなこと言ってやってる相手が背負っているものの重さに頓着しない。他人にそう言ってる自分が好きなだけだ。
私もそうだった。遠くで大変な目に遭っている人に、どうにか何か救いになるような言葉をかけたかった。私は、その人のことが大好きだ。素晴らしい人だと思う。
太陽みたいな人で、移動性高気圧みたいに、その場に居るだけで憂鬱な暗雲を吹き飛ばして晴れ晴れさせてくれる人だ。その人が落日を迎えた。沈まぬ太陽の薄暮時に戸惑っていた私は、とにかくこの人を今ここから逃がしたかった。
いま思えば何を言えば正しかったのか、と悔やむことすら失礼な話に感じる。
必死で周囲と戦って、自分自身とも葛藤している人に「逃げろ」というのは、試合中のプロレスラーに「早くギブアップしろ」といっているようなものだ。
そんなセコンドも観客も、もし自分の目の前に居たら張り倒したくなるだろ?
同じことを自分がしていた。
戦うと決めた人間に逃げろというのは無責任を通り越して、逃げた責任も負わないうえに自己満足のオマケつきというタチの悪さだ。でも、逃げてほしいと思うほどつらい状況に、その人がいたとして。
がんばれ、とも、言えただろうか。
信じている、と言えるだろうか。
それを言えないというのは、言われた相手を信じ切っていないからだろうか?
結局その程度なのだ、と自分を責めることがいちばん楽で安全な気がする。
自分が今またつらい時期を過ごしている。余裕のない日々に疲れている。
いま私なら、誰から何て声をかけられたいのだろう?
私なら私みたいな奴が寄ってきたらヤダな、と思うけれど、辛い時に私なんかから声をかけられた人は、さぞ我慢強く優しい人で、辛抱を増やしてしまっていたのだろうな。
お前が憎くて殴ったんじゃない、と言われて育ったけれど、貴女が好きで励ましたいです、といったところで避けられる。選ばれはしない。感謝の濃淡のグラデーションをいつも気にする下卑た不躾は具体的な暴力と同じか、それ以下の悪質さだと思う。
助けたとか、支えたとか、どっかで自分で自分を褒めている。それが自己否定へのカウンターになっていて、そうしていないと自分を保てないのかもしれない。
そういうところでも、誰かに寄り掛かっていないと持たないのか自分は。
砕かれて欠けたままの自己肯定感だとか自尊心だとかそういうものを、いびつに繕い、ごまかしてきたツケを、今になってリボ払いしている気分だ。




