高校生のフリマアプリ残高:79,925円の秘密
翌朝、自転車で連れてこられた畑の前で、藤本は唖然として立ち尽くしていた。
「……これ、は?」
目の前に広がっていたのは、十メートルほどの畝が三列。よく見れば、ふくよかに膨らんだエンドウ豆の実が鈴なりに実っている。
状況が飲み込めず硬直する藤本の視界に、なぜかジャージ姿の初音まで紛れ込んでいた。
「さあ、エンドウ豆の収穫を手伝ってくれ!」
「いや、どういうことだよ?」
「春とはいえ、しばらくしたら日差しがきつくなる。理由は作業しながら話すから、ほら、早く、早く」
急かされるように畑へと降り立った藤本は、卓人が手際よく収穫していく様子を見よう見まねでエンドウ豆を摘み始めた。
「これは『うすいえんどう』って言うんだ。豆ご飯にすると最高に美味しいんだよ」
卓人の言葉に、作業をしていた初音が顔を上げて問いかけた。
「うすいえんどうって、グリーンピースのこと?」
「見た目はそっくりだけど、グリーンピースの品種改良種らしい。関西じゃ、春の定番として一般的に親しまれているよ」
卓人は、以前住んでいた奈良からその種を持ってきて、ここで栽培しているのだという。
「……で、なんで俺がその豆の収穫をさせられてるんだよ」
苛立ちを隠さず口を尖らせる藤本に、卓人はエンドウ豆をレジ袋に放り込みながら答えた。
「これが、僕の収入源だからね」
「は? ……この、うすいえんどうが収入源?」
あまりに意外な返答に、藤本は作業の手を止め、驚きに目を見開いた。
「ああ、そうだよ。実は、フリマアプリで売ってるんだ」
「えっ? フリマアプリ!? 未成年って年齢制限とか大丈夫なのかよ」
驚きを隠せない藤本に、卓人は「親の同意があれば登録できるよ」と淡々と返した。そのままポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を数回タップして藤本の前に差し出す。
「論より証拠。……ほら、ここに七万九千九百二十五円あるだろ」
確かに、アプリのマイページにある残高欄には『79,925』という生々しい数字が並んでいた。
「スゲー……。八万円近くあるじゃん……!」
金銭的に追い詰められ、万引きにまで手を染めてしまった高校生にとって、その額はあまりにも刺激が強すぎたのだろう。
そう言ったきり、藤本は画面を凝視したまま完全に固まってしまった。
「ただ、この金額は奈良からこっちに引っ越してくるときに、断捨離した不用品の売り上げも含まれているけどね」
卓人はそう言って苦笑した。この売上金は自分の小遣いにするだけでなく、畑の肥料代や管理費用といった必要経費を賄うための大切な資金なのだと、彼は淡々と明かした。
「……なぁ。今日俺を呼んだのって、同じように野菜を作って売れってことか? それで、稼いだお金でグローブを買えって……」
藤本の声には、これでグローブが手に入るかもしれないという切実な期待と、ぬか喜びに終わるのではないかという一抹の不安が入り混じっていた。
「そうだよ。もし藤本にその気があるなら、僕がこの数年で構築したノウハウをすべて教えてもいいと思ってね」
「ノウハウって……。野菜を育てて、フリマアプリで売るだけだろ?」
「確かに、言語化してしまえばそれだけだね」
卓人は作業に集中したまま、抑揚のない声で言葉を続けた。
「だけど、少なくとも君の想像を遥かに超える世界のはずだ。野菜作りをお金に変える体験に触れたら、万引きなんて馬鹿な真似をしようなんて思わなくなるよ」
「ふーん。そんなもんなのかよ」
どこか子供扱いされ、プライドを逆なでされた藤本は、面白くなさそうに生返事をした。
卓人はそんな彼の甘い態度を敏感に察し、少しトーンを落とした冷ややかな声をあげる。
「じゃあ、試しに聞くけど。君はキャベツを自分で育てて、フリマアプリで売れると思うかい?」
「え? いや、それはわかんないけど……」
「答えはノーだ。今スーパーに行けば二百円で買えるキャベツをフリマアプリで売るとして、送料に八百円かかったら、一体いくらで出品すればいいんだって話だよ。そこからさらに一割の販売手数料まで差し引かれる。そもそも、素人が見栄えのいい『売れるキャベツ』なんて、そう簡単に作れるわけがないだろ!」
容赦なく現実的な数字を突きつける卓人の迫力に、藤本は完全に気圧され、反論の一言すら紡げなかった。
二人の会話を耳にしながら、黙々と手を動かしていた初音も、内心で首を傾げていた。
キャベツの送料に八百円もかかってしまっては商売にならない。それはさすがに理解できた。
しかし、なぜそれほどまでに送料が高くなるのか。そして、なぜなんてことのない普通のキャベツを育てるのが素人には難しいのか。具体的な理由までは、今の初音にはまるで見当がつかなかった。
それは藤本も同じだったのだろう。卓人が突きつけた容赦のない正論の前に、彼はただぐうの音も出ずに押し黙るしかなかった。
その疑問は、一時間後に卓人の自宅に戻ってから、視覚的な形で解消された。
神社に隣接する自宅のリビングのテーブルに、卓人は大きさの異なる三種類の空箱をぽん、ぽん、ぽんと並べてみせる。
「二百円、五百円、八百円。左から順にサイズが大きくなって、送料も上がるんだよ」
「なるほど……。キャベツは一個でも、その一番右のデカい箱にしか入らないってことか。そんなの、送料だけで大赤字じゃん」
かさばるものは送料負けする――その単純でありながら致命的な「送料の罠」に、自ら気づいた藤本を見て、卓人は満足そうに頷いた。
「その通り。少額取引の野菜販売で利益を出すには、いかに送料を抑えるかがポイントになる。だから自ずと、サイズが小さくて付加価値の高いものに絞られるんだ」
横にいた初音は、左端にある薄く平らな箱を見つめた。――だから、エンドウ豆なのか。
彼がこの品種を選んだ理由が、ようやく腑に落ちた。
「……だったらさ、もっと大きな箱に複数のキャベツを詰め込んで、まとめ売りにすれば送料の比重が薄まるんじゃないのか?」
藤本がひらめきを口にする。
「なるほど、まとめ買いなら送料の比重は軽くなる。一個あたりの単価を抑えて、お得感を演出することは可能だね。……でも、それじゃあ買い手がつかないんだ」
「なんでだよ! 計算上は成立するだろ!」
安く提供できるはずのアイデアをなぜ否定されるのか、藤本にはどうしても理解できない。食ってかかるようなツッコミに、卓人は淡々と返した。
「お好み焼き屋じゃあるまいし、一般の家庭で一度に五個も六個もキャベツが必要だと思うかい? それでも出品していれば、いつかは売れるかもしれない。だけど売れるのを待っている間に、野菜はどんどん鮮度を失って腐っていく。そんないつ売れるとも分からない在庫になるリスクを負ってまでやるべきじゃない」
「確かに……」
卓人に「家庭での需要と鮮度」という商売の本質を突かれ、またしても見事に論破された藤本はぐうの音も出ない。
その絵に描いたような撃沈ぶりに、二人の横にいた初音は思わずクスと笑ってしまった。
「でも、着眼点は悪くないよ。じゃがいもや玉ねぎみたいに日持ちする野菜なら、五キロ、十キロ単位のまとめ売りでお得感を出すのは定番の戦略だしね。それに僕もたまに、オクラやナス、それにゴーヤやカボチャなんかを詰め合わせた『夏野菜セット』にして売ったりもしてるんだ」
卓人は「柔道でいう合わせ技みたいなものさ」と言って、悪戯っぽく笑った。
「そういえば日下部、さっき素人が見栄えの良いキャベツなんて作れないって言ってただろ。キャベツの栽培って、そんなにハードルが高いのか?」
「藤本はさっき『野菜を育てて売るだけ』なんて簡単に言っていたけど……。まさか、種を蒔いたらあとは勝手に芽が出て、そのまま勝手に大きく育つとでも思っているのかい?」
「いや、いくら何でもそこまで世間知らずじゃねえよ。水や肥料をやったり、それなりの世話が必要なことくらい分かってる」
不満げに口を尖らせる藤本を見て、卓人はふっと鼻で笑った。




