――嘘も方便!?
十日後、初音は高校の入学式に向かう電車の中で、一人物思いにふけっていた。
父親は緊急搬送された後、旅行先の病院でそのまま入院を余儀なくされるも三日後には退院できた。
精密検査の結果も特に異常はなく、一週間が経つ頃には何事もなかったかのように会社復帰している。
「本当に、運が良かったですね」
それが担当医の第一声だった。
もしあの場所にAEDがなければ命は助かっていなかったかもしれないし、現場での素早い救命処置がなければ、重い後遺症が残っていたかもしれない。――要するに、一歩間違えれば父親の「今」はなかったのだと。
自宅に戻って数日後、医師が放ったその言葉を初音は母親から知らされた。
「今、こうしていつもの日常生活を取り戻せているのって、奇跡なのかもしれないね……」
母親の言葉に、初音はゾッとするような恐怖を覚えた。
あのとき父親を失っていたら――。家族の日常は一瞬で崩壊し、今日という入学式の日を迎えることすらできなかったかもしれない。
煩わしい中学の人間関係をリセットするため、あえて誰も来ないような遠くの高校を選んだ初音だったが、新しい環境への不安など、今の彼女にとってはちっぽけな些事に思えていた。
つつがなく入学式が終わり、新入生たちはそれぞれの教室へと移動する。
黒板の座席表で自分の位置を確認し、初音はその席に向かって歩き出した。――その途中だった。通り過ぎようとした席に座る男子生徒と、ふいに目が合う。
「あっ」
「えっ?」
二人の声が重なり、一瞬だけ時間が止まったように顔を見合わせた。
「あの時の……!」
初音は思わず声を漏らしていた。
「君は、確か……」
その男子生徒も、驚いたように目を見開く。
予期せぬ再会に、初音は一瞬言葉を失うが、我に返ると慌てて感謝を伝えた。
「先日は父親を助けていただいて、本当にありがとうございました。私、柏原初音といいます」
「僕は日下部卓人。驚いたな、同じ学校だったんだね。ところで、お父さん、大丈夫だった?」
「おかげさまで後遺症もなく、すっかり元気です」
「良かったね」
日下部と名乗った男子生徒は、屈託のない笑顔で微笑んだ。
「あの……日下部さんは、医大生ではないのですか?」
あの時、彼は確かに「医大生だ」と言っていたはずだ。なぜ医大生がここに、しかも自分と同じ学校の制服を着て座っているではないか。初音は純粋な疑問を口にしていた。
「ああ、あれね。あの時は緊急事態だったから、事を円滑に進めたかったんだ。ただの高校生が指示を出しても、周りの大人はパニックで動いてくれないでしょ。嘘も方便って言うしね」
――嘘も方便!?
思いもよらない返答に、初音は目を見張った。彼は咄嗟についた嘘だと、さらりと言ってのけたのだ。
しかし、あの混乱した現場において、彼の機転が人命救助を成功に導いたのは間違いのない事実だった。
誰もが取り乱す中、あの青年だけは冷静に状況を見極め、大人の誰もが彼の「医大生」という言葉を信じて指示に従っていた。
そして何より、そのおかげで父親の命が救われたのだ。
そう考えれば、湧き上がるのはやはり感謝しかなかった。
新入生の大半が席に着きつつある教室の空気を察し、初音は彼に小さく一礼すると、斜め後ろにある自分の席へと向かった。
ホームルームが始まり、これからの学校生活に関する配布物や連絡事項を一通り受け取ると、今日の予定はすべて終了となる。
周りの生徒たちがガタガタと机を鳴らして帰宅準備を始める中、初音は卓人の席の前へと赴いた。
「あの、もしよかったら……バドミントン部の見学、一緒に行きませんか?」
唐突な誘いに、卓人は自分の顔を指さして「僕に言ってる?」と、分かりやすく眉をひそめて首を傾げた。
席から立ちあがった彼を見て、背丈だけなら大学生でも通りそうである。
だが、あどけなさが残る顔立ちや、制服姿はどう見ても自分と同じ高校生だった。
「はい、日下部くんにお願いしているんです。……なんて、ちょっと強引ですよね」
「なぜ、バドミントンに縁もゆかりもなさそうな僕を誘うんだい?」
卓人のもっともな指摘に、初音は冗談めかして食い下がる。
「噂によると、バドミントン部って可愛い先輩が多いらしいですよ。ほら、目の保養になるんじゃないかなって」
「あいにく、そのような不純な動機で動く野次馬根性は持ち合わせていません」
卓人は、初音の丁寧な口調をわざとなぞるようにして、その不純な(?)誘いをきっぱりと拒絶した。
「……実は私、この学校に同じ中学から来た友達がいなくて。一人で見学に行くの、ちょっと心細かったから……」
卓人にじっと見つめられ、本音を見透かされたような恥ずかしさが込み上げる。初音は最後の方はごにょごにょと言い訳のようになって俯いてしまった。
「ごめんね。僕は帰宅部一択だから」
「私も入部するつもりはないの! でも、面識のある上級生から、見学だけでもって言われるとどうしても断れなくて……。日下部くん、お願い……っ!」
初音は咄嗟に、ぎゅっと目をつぶって胸の前で手を合わせた。
数秒の沈黙。そっと瞼を開くと、そこには言葉を失って固まっている卓人の姿があった。
「……声のトーンを上げて『お願い』って。柏原さんって、見かけによらずそういうあざとい仕草をするんだね」
<……ハッ!>
自分が無意識に行った声とポーズに我に返り、初音の顔が一気に火がついたように赤く染まる。
自分が無意識に行った声とポーズに我に返り、初音の顔が一気に火がついたように赤く染まる。
「……まあ、この後の予定もないし、見学だけなら付き合ってあげてもいいよ」
耳まで真っ赤にしている彼女の様子をじっと見つめていた卓人は、小さくため息をつき、照れ隠しのようにボソッとそう告げた。




