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その青年、医学生につき

「お姉ちゃん、この石段456段あったよ!」

一番乗りした弟の蒼空(そら)の、いかにも得意げな声が上から降ってくる。

麓の猪避けのゲートを開け閉めして、家族四人で登り始めたのが十分前のこと。後に続く初音(はつね)も、休憩なしであと少しのところまで登ってきている。

途中、怖いもの見たさで振り返りたい衝動に駆られたが、後ろを振り向く勇気はなかった。

麓からは空に続く石段が急斜面を反り上がり、まるでジェットコースターのレールのように見えていたからだ。

初音は、息も絶え絶えに無心で前だけを見つめ石段を踏みしめる。

あと少し。


<……453、454、455、456>

頂上にたどり着いた初音が、最初に視界に入れたもの。

それは、正面の奥に佇む小さな展望台……の土台に、ぽつんと腰を下ろしている一人の青年だった。

先に着いた蒼空はすでに奥の展望台へと駆けていき、その場にはいない。

初音はひとしおの達成感に浸る間もなく、その青年といきなり目が合って、荒い息が止まるほどドキッとしている。

頂の周囲は狭く、青年との距離があまりにも近かったこともあった。

青年は、目の前で息を荒げて固まっている少女に違和感を覚えたのか、傍らに置いてあった眼鏡をそっと掛けた。


「初音~、よく頑張ったわね」

足を踏み出そうとした初音の耳に、下から登ってくる母親の真由美(まゆみ)の声が届く。

何気なく振り返った初音の目を射抜いたのは、スキー場のジャンプ台さながらの、天地が逆転するような錯覚を覚える絶景だった。

高所への恐怖から視界がぐにゃりと揺らぎ、目眩(ままい)と共に初音の身体が空中へ投げ出されそうになる。


「危ない!」

その瞬間、青年の手が初音の腕を強固に捕らえ優しく引き戻した。

「こんなところで転んだらやばいよ」

「あ……すいません……」

眼前に迫った青年の眼差しと、その言葉に初音は羞恥で顔を火照らせた。

青年はそんな彼女にニコリと微笑むと、掴んでいた手をそっと離した。


「ありがとうございます!」

初音は上がる息を整えながら、すかさずお礼の言葉を絞り出す。

青年は石段の方へと歩き出し、振り返る代わりに右手をひらりと挙げてそれに応えた。

そのまま、驚くほど軽やかな足取りで石段を下りていく。

少し遅れて、両親が肩を上下させながらようやく頂上へと這い上がってきた。

先ほどまで青年が佇んでいた礎石を見つけると、父親の達也(たつや)は崩れ落ちるようにそこへ腰を下ろした。


「十五分……いや、もっとかかったか。勘弁してくれよ、この石段は厳しすぎる」

達也がハンカチで額の汗を拭いながら愚痴をこぼすのも無理はない。

昨日は古道をひたすら歩かされ、今日は朝からこの急勾配の石段だ。

日頃の運動不足に鞭打つようなハードな旅程に、三月下旬にしては妙に汗ばむ陽気が追い打ちをかける。

朝から筋肉痛を訴えていた達也の足は、すでに悲鳴を上げているに違いなかった。

「こんなマイナースポット、一体どこから情報を仕入れてくるんだ?」

達也が妻の真由美に、恨めしそうな小言を呟く。


「もちろんネットよ。この山麓線沿いには素敵な古社がたくさんあるのよ」

「ここは神社じゃないだろ!」

「ここの駐車場には道の駅もあるし、その合間の休憩がてらの箸休めみたいなものよ」

真由美の悪びれない返答に、達也は返す言葉が見つからないのか、がっくりと肩を落として閉口してしまった。


生真面目な父親と奔放な母親。

母がこの小旅行を企画し、父がホテルや新幹線の手配といった実務を担う。

今日の移動手段であるレンタカーも、現地調達ではなく彼があらかじめ手配していたものだった。

初音はいつもながらの両親の掛け合いを耳にしながら、先ほどまでの顔の火照りが引いていくのを感じていた。これはこれでバランスが取れているのだろうと、ぼんやりと穏やかな心地で二人の姿を眺める。


「お母さん、ここすごい景色だよ!」

蒼空の弾んだ声に背中を押されるようにして、三人は展望台のウッドデッキへ足を踏み入れた。

「……なんて綺麗な景色!」

真由美が思わず歓声をあげる。そこには、雲一つない青空のもと、古都奈良の街並みを一望する息をのむような絶景が広がっていた。

石段を登ることわずか十数分の佳景に、家族全員の胸が高鳴る。

真由美はガイドマップを片手に解説を始めると、さっきまで愚痴(ぐち)をこぼしていた父親も、いつの間にか興味深そうに身を乗り出して聞いていた。

その傍らで、蒼空は両手で双眼鏡を作って無邪気にはしゃいでいる。


展望台から見渡す圧倒的なパノラマに、初音の表情からも久しぶりに翳(かげ)りが消え、晴れやかな笑顔がこぼれた。

彼女の心をずっと支配していた霧。それは、反りが合わず悶々とした中学時代を過ごす原因となった女子と、春からまた同じ高校で顔を合わせなければならないという不安だった。その暗い予感が、彼女の日常にずっと濃い影を落としていたのだ。

しかし今、この壮大な景色の前で、その重苦しい呪縛の霧が晴れたような気がした。



「下りは楽勝!楽勝!」

蒼空の威勢のいい声に引っ張られるようにして、麓までは家族そろって驚くほどあっという間だった。

「お腹すいたー!」

威容を誇る石段を前に、登る前はあんなにビビり倒していたというのに、今の彼の関心は百パーセント食欲へとシフトしている。

しきりに昼食を催促するその姿は、相変わらず我が道を行くというか、良くも悪くも相変わらずマイペースだ。


「ちょうど十一時か」

達也が腕時計に目を落とすと、公園の入り口にある道の駅で買い出しをして、目の前の芝生広場で食べないかと提案した。

「やったー、ピクニックだ!」

父親の粋な提案に、蒼空は満面の笑みを浮かべて大はしゃぎしている。


「せめて、どこか日陰でもあればいいのだけれど……」

真由美は、遮るもののない青空の下での食事に、少しばかり億劫(おっくう)そうな声を漏らした。

初音もまた、できれば屋内の落ち着いた空間で息をつきたかったのが本音だ。

しかしこの家族は、良くも悪くも蒼空を中心に物事が動いていく節がある。

初音も、五つ離れた弟の意見はなるべく尊重してやりたいと考えていた。


「そう言えば、私もお腹空いちゃったな」と初音が優しく言葉を添える。

すると、それまで青空の下での食事に乗り気でなかった真由美の頑(かたく)なさが、綺麗に解けた。

「そうね。時間もちょうどいいし、道の駅で買い出しするのも楽しそうね」

母親がまるでオセロの駒をひっくり返すようにして乗っかってくる。いつもの家族の、なんてことのない微笑ましい一幕――。

しかし、この温かな平穏が、まもなく唐突に終わりを告げるとは、この時の初音たちは誰も知る由もなかった。



悲劇は、穏やかな芝生広場でレジャーシートを広げようとした、その瞬間に起きた。

肉塊(にくかい)が地面に叩きつけられるような、鈍く重い音が響く。唐突に、初音の目の前で父親の達也が前のめりに崩れ落ちた。

「お父さん!? どうしたの!?」

初音の悲鳴に弾かれたように、母親の真由美が「あなた! あなた!」と半狂乱でその肩を揺さぶる。だが、達也はぴくりとも動かない。


「すいません! 誰か、誰か助けてください!」

真由美の尋常ならざる叫びが広場に響き渡り、通りかかった行楽客たちがぎょっとして足を止める。そのうちの数人が、慌ててこちらへと駆け寄ってきた。

「どうしました!?」

「主人が、突然倒れて……!」

目の前の異常事態を前に、集まった人は一瞬息を呑み、どうするべきか分からずその場に硬直してしまった。


「どいてください! 落ち着いて!」

その膠着(こうちゃく)を破ったのは、先ほど山頂で出会ったあの眼鏡の青年だった。どこからともなく現れた彼は、遠巻きに囲んでいた人々を押し退けて達也の傍らに膝をつく。

「僕は医学生です!」

青年は鋭く告げるや否や、達也の肩を叩いて呼びかけ、胸の動きを確認した。――呼吸はない。


「心肺停止です。すぐに蘇生(そせい)を開始します!」

青年は迷わず両手を重ねて達也の胸の真ん中に置いた。肘を真っ直ぐに伸ばして固定し、全体重を浴びせるようにして激しく胸骨圧迫(きょうこつあっぱく)を開始する。


「誰か、すぐに119番を! それからあそこの管理棟にAEDがあるはずです、大至急持ってきてください!」

その毅然とした指示に背中を押されるように、真由美は震える手でスマホを掴み、遠巻きに見ていた男性の一人も即座に建物へと駆け出した。


「救急隊と繋がりました! 場所を聞かれていますが、ここがどこだか……!」

「スピーカーにしてください! 僕が代わります!」

差し出されたスマホから、オペレーターの落ち着いた声が漏れる。青年は胸骨圧迫を続けながらも、冷徹なまでに的確に状況を告げた。


「突然倒れ、意識・呼吸なし。心肺停止から推定三分。一分前から胸骨圧迫を開始。現在、施設内のAEDを取りに行ってもらっています」

「分かりました。AEDが届き次第、使用してください」

その間も青年は、テンポよく胸骨圧迫を継続している。

通話が終わる頃には、絶え間ない動作のせいで青年の額に大量の汗がにじみ、息が激しく上がっていた。


「誰か……はあ、はあ……っ、公園の入り口まで、救急車の……誘導をお願い、します……!」

青年の呼びかけに、周囲にいた一人が「私が行きましょう」とすぐさま入り口へ向かって駆け出した。

そこへ、先ほど走っていった男性が「AEDです!」と施設の職員を伴って息を切らせて戻って来る。


「事情は聞きました! 私はここの施設職員です。AEDの操作は私がやりましょう!」

「お願いします!」

その様子をすぐ側で見守っていた老人が、おずおずと心配そうに声を掛けた。

「せめて、あっちの日陰に運んでからの方がいいんじゃないかね?」

その提案を、青年は即座に、しかし毅然と否定した。


「心肺停止の状況では、AEDによる電気ショックがたった一分遅れるだけでも、救命率が十パーセントずつ下がっていくんです。一刻を争いますので、ここで行ないます!」

状況を察した職員は、達也の服のボタンを素早く外すと、インナーシャツをめくりあげる。露わになった胸部の二箇所へ、手際よくパッドが貼り付けられた。

自動解析ののち、AEDから『電気ショックが必要です。傷病者(しょうびょうしゃ)から離れてください』と機械的な音声が流れてくる。


「全員離れて! 触らないでください!」

職員の鋭い合図で、青年が速やかに手を離して数歩下がった。

けたたましい充電の警告音が首位に響き渡る。

職員の指が、赤く点滅するショックボタンを強く押し込んだ。

――ドスン、と強烈な電流が流れた瞬間、達也の大きな体が不自然に跳ね上がる。

<お願い!目を開けて……!>

初音は、恐怖のあまり声にならない悲鳴を心の中で絶叫した。

全員が固唾を呑んで注視するが、達也は何の反応も示さない。


『傷病者(しょうびょうしゃ)に触れても構いません。直ちに胸骨圧迫(きょうこつあっぱく)を開始してください』

やがて、無常にもAEDから次のガイダンスが流れてきた。

そのメッセージに従って、再びその掌を相手の胸へと押し当てた。

「ハッ、ハッ、ハッ」

青年が、吐く息に合わせて手に力を込める。

成人の胸を五センチ沈ませる胸骨圧迫、鈍く規則正しい圧迫の音だけが、静まり返ったその場にこだまする。

「AEDの次の解析までは二分間です。それまで、絶やさずに圧迫を続けます!」

自分自身を鼓舞するように、青年が荒い息の隙間から自らの行動をそう補足した。


そして二分後、再びAEDから自動解析のアナウンスが流れてきた。

『傷病者から離れてください。……電気ショックが必要です。充電しています』

青年が音声に従って、素早く達也の体から離れる。

やがて『ショックボタンを押してください』と赤色のボタンが点滅を始めたが、それを前に陣取る職員の手が不自然に止まった。

「どうしたんですか!?」

「あの……電気ショックを、続けて何度も行っても本当に大丈夫なものかと思いまして……」

「大丈夫です、AEDが判断しています! ボタンを押してください!」

青年の強めの言葉に背中を押され、職員が再度ボタンを押し込んだ。

――ドスン。またしても、達也の大きな体が大地を跳ねるように激しく揺れる。


『電気ショックが実行されました』

無機質なメッセージが響く中、一同は言葉を失い、固唾(かたず)をのんで見守った。

「お父さん!! お父さん!! お願い、目を覚まして!!」

父親の生死の境界線を目の当たりにし、初音は喉を千切らんばかりに絶叫した。

直後、世界が止まったかのような深い静寂が支配する。

「……痛テテテ……」

かすかな声と同時に、達也の目がパチッと見開かれた。

「おぉ――っ!」

息を吹き返したその姿に、周囲の人たちから大きなどよめきが沸き起こる。


「痛い! 痛い! 一体どうなっているんだ!?」

しきりに胸の痛みを訴える達也の姿を見て、青年は張り詰めていた糸が切れたように、後ろに手をついて芝生へとドサッと座り込んだ。

見守っていた周囲の人たちの間にも、一気に安堵の表情が広がっていく。

胸を押さえながら起き上がろうとする達也を、近くにいた人たちが「寝ていてください!」と宥める姿を見て、初音の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。

――もう、大丈夫だ!

弟の蒼空(そら)も、恐怖から解放されたのかワンワンと声を上げて泣きじゃくっている。


「良かった……本当に良かった……」

母親の真由美も涙ぐみながら、何度も何度も小さく頷いていた。

この騒ぎの中で、ただ一人、当事者である達也だけが状況が呑み込めずキョトンとしている。

先程から遠くで響いていたサイレンの音が、すぐ近くで止まった。

そのタイミングで、先導する人に導かれるようにして、ストレッチャーを抱えた救急隊員たちが血相(けそう)を変えて芝生広場へと駆け込んできた。


「救急車が到着するまで、十分か……」

周囲にいた人の声が耳に届く。

<たった、十分……!?>

初音が広場の時計台に目をやると、針は十一時十二分を指していた。

救急車が来るまで、永遠のようにも思える長い時間がかかったと感じていただけに、これまでのすべてがわずか十分の出来事だったという事実に驚かされる。

父親が、慌ただしくストレッチャーへと移され、救急車へと運ばれていく。

「ありがとう……ありがとう……」

おぼつかない声で、達也は何度も感謝の言葉を繰り返していた。

この頃には彼も、自分が九死に一生を得たのだということを、ようやく悟ったようだった。



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