第2章:その3 ― 密約の周波数
指揮室の喧騒が嘘のような静けさの中、カサヴェテス大佐は通信士を鋭い視線で追い払うと、自ら通信機の前へ座り込んだ。
「こちらカサヴェテスだ。ガント、聞こえるか」
ノイズの向こうで、太い葉巻を噛み砕くような荒々しい声が返ってきた。
「大佐か……? 珍しい時間に何だ。まだ夜明け前だぞ」
「ガント、すぐに作業を中断しろ。全隊員をトロッコに乗せ、北へ帰還させろ。理由を問うな。これは個人的な指示だ。心配するな、工事が遅れても皆の給料は俺が保証する。とにかく今は、機材を置いてすぐに離脱しろ!」
カサヴェテスはガントの困惑を遮り、通信を切った。中央委員会への報告はまだだ。次の視察官をやり過ごすまで、あと三週間。独断で動ける猶予はそれだけだった。
大佐は本部裏手に隠してあった軍用サイドカー「黒い鉄馬」にまたがった。
「乗れ、リアム」
リアムは戸惑いながらサイドカーに身を沈めた。大佐はヘッドライトも点けず、月明かりだけを頼りに闇の中を疾走した。
街外れの古びた研究棟に到着し、大佐が重い扉を叩くと、インクで黒く染まった指先の男が現れた。
「また夜更けか、アーサー。……軍の堅物大佐が、夜遊びに若い連れを連れ込むようになったのか?」
カサヴェテスは苦笑し、男の胸を軽く突いた。
「エドワード・カニンガム。皮肉屋の癖は相変わらずだな」
カニンガムはリアムを値踏みするように鋭い視線を向けた。
「エドワード、そいつはただの測量士じゃない」カサヴェテスが静かに口を開いた。「代々続く工学一家の末裔だ。物心ついた時から、エンジンを積んだ複葉機の心臓の音に恋焦がれてきた男だよ。俺がわざわざ深夜に連れてきた理由はそれだけじゃない。……リアム、鞄の中のものを出せ」
リアムは震える手で懐から設計図を取り出した。カニンガムはそれを受け取り、ランプの灯りの下で目を細めた。一枚、また一枚と図面をめくるたびに、彼の表情から余裕が消え、代わりに戦慄に近い昂揚が浮かび上がっていく。
「エドワード、地上の支配権が崩壊しようとしている」
カサヴェテスが語る巨影の話を、エドワードは黙って聞いた。獣たちの移動速度と侵攻ルートを分析し、彼は冷静に告げた。
「ヤツらは地形を選びながら北上している。最悪のケースでも、首都の門を叩くまではおよそ三ヶ月。……もちろん、当たり前に約束はできないがな」
エドワードは設計図を指でなぞりながら、獰猛に笑った。
「お利口さんで、型にハマった測量士を演じるには、お前の才能はあまりに惜しいな、リアム。……アーサー、お前が連れてきたこいつは、地獄を叩き落とす『翼』を本気で作る気だぞ。ようこそ、地獄の最前線へ。まずはエンジンの話から始めようか」
窓の外では、迫りくる夜の帳が地獄の足音を隠している。しかし、この密室の中には、世界を塗り替えるための「希望」が、静かに、しかし確実に形を成そうとしていた。




