第五話 森山花蓮の受難――四号室の女
マスターはしばらく私の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「この辺りの昔話なら、いくつか知ってますよ。何をお聞きになりたい?」
「このマンションが建つ前、ここに古いアパートがあったと聞きました。その頃のことを何かご存知ですか?」
マスターの手が、わずかに止まった。
「……その話ですか」
「何かご存知で?」
「ええ。そのアパートは、四十年前に建てられた木造二階建てでした。私も若い頃、そこに住んでいたことがあります」
マスターはコーヒーカップを拭く手を止め、遠い目をした。
「あのアパートには、ちょっとした噂がありました。『四号室の女』って」
「四号室?」
「ええ。四号室には、赤いワンピースを着た若い女性が住んでいたんですが、ある日突然姿を消してしまったんです。部屋には荷物もそのまま、まるで日常生活の途中で消えてしまったかのように」
「それで、彼女は見つかったんですか?」
「いえ。警察も捜索したんですが、結局見つからず。やがて事件は迷宮入りになり、アパートも取り壊されて今のマンションが建ちました」
マスターはコーヒーカップを置き、私の目をまっすぐ見た。
「でもね、それからですよ。この辺りで妙な話を聞くようになったのは」
「妙な話?」
「赤いワンピースの女性を見た、という話です。マンションの住人や近所の人が、時々見るらしいんですよ。夜遅くにエレベーターの前に立っているのを」
私は息を呑んだ。
昨日私が見たあの女性。
そして、小野寺健太が残した手紙に書かれていた「赤いワンピースの女」。
すべてがつながってきた。
「マスター、その女性の名前は?」
「確か……美咲さん、だったかな。下の名前しか覚えていませんが」
「ありがとうございます。とても参考になりました」
私たちは喫茶店を後にした。外はすでに午後になろうとしていた。時間が刻々と過ぎていく。
「森山さん、四号室の女性が鍵ですね」
「ええ。でも、まだわからないことが多すぎます。彼女はなぜ消えたのか。なぜ今、このマンションに出るのか。そしてあの写真の数字の意味は」
「そうですね……でも、何かが繋がり始めている気がします」
柿谷さんはそう言いながら、スマートフォンを取り出した。
「俺、ちょっと知り合いのオカルト研究家に連絡してみます。四号室の女の話、何か知ってるかもしれません」
「お願いします。私はもう少し、マンションの周辺を当たってみます」
「わかりました。何かあったら連絡ください」
柿谷さんと別れ、私は再びマンションへと向かった。夕暮れが迫り、空は赤く染まり始めている。あと二十四時間もない。焦りが胸を締め付ける。
(必ず、生きて帰る。陽子のために)
私は拳を握りしめ、マンションのエントランスへと足を踏み入れた。




