第8話 投稿を止めて、雨の森で
金曜の夕方、佐藤悠真は会社のパソコン画面を眺めながら、深いため息をついた。
インスタのフォロワーは二千三百人を突破していた。
しかし、状況はますます深刻になっていた。
「特定班」のアカウントが、複数の写真を並べて詳細な解析スレッドを立てていた。
「このシリーズの星座の位置、木の樹皮の模様、湖の水の屈折率……すべてが日本のどの場所とも一致しない。
作者は本物の『別の場所』を撮影している可能性が極めて高い。
DMで情報提供をお願いします。共同で検証しましょう。」
そのスレッドはすでに千以上のいいねと数百のリポストを集めていた。
悠真は会社帰りの電車の中でスマホを握りしめ、冷や汗を拭った。
これ以上続けると、確実に特定される。
最悪の場合、異世界の存在そのものが疑われ、俺の生活がめちゃくちゃになる。
「……投稿、止めるか」
アパートに帰り着くなり、悠真はインスタアカウントを「一時的に非公開」に設定した。
過去の投稿もいくつか非表示にし、新規投稿は当分控えることにした。
心は少し寂しかったが、秘密を守るためには必要な決断だった。
「バズるのは楽しかったけど……命より大事じゃないよな」
その夜、悠真は荷物を車に積み、いつもの山奥の無料キャンプ場へ向かった。
今週は残業がやや多かったが、疲れ果てたわけではない。
ただ、投稿を止めたストレスと、異世界でゆっくりリセットしたいという気持ちが強かった。
キャンプ場に着いたのは夜九時過ぎ。
空は厚い雲に覆われ、雨の予感が漂っていた。
急いでテントを設営し、焚き火台に火を起こす。
炎がパチパチと音を立て始めると、自然と心が落ち着いてきた。
「今夜は、投稿のことは忘れて、のんびりしよう」
焚き火を見つめながら缶ビールを一口飲む。
炎が青白く輝き始め、煙が渦を巻いた。
光の門がゆっくりと開く。
向こう側は、いつもの森と湖。
雨の気配が、異世界側にも漂っているようだった。
バックパックに雨対策のタープ、コーヒーセット、温かいスープの材料を詰め、門をくぐった。
異世界に着いた瞬間、冷たい雨粒がぽつぽつと落ちてきた。
甘い草の香りが雨に混じり、独特の湿った土の匂いが体を包む。
肩の力がするっと抜けていくのを感じながら、悠真は湖畔から少し奥の木陰へ移動した。
現代のソロキャンプで使っている軽量タープを木に張り、簡易シェルターを作った。
焚き火台は持ってこれないので、小型ガスバーナーとウッドストーブのハイブリッドで小さな火を確保。
雨音がタープを叩くリズムが、意外と心地よい。
クッカーで異世界の清流の水を沸かし、インスタントの味噌汁を温める。
持ってきたベーコンと野菜を加えて簡単な鍋料理に。
雨の中で食べる温かいスープは、格別だった。
一口ずつ味わいながら、現代の喧騒とインスタの波紋が遠ざかっていくのを感じた。
「投稿を止めて正解だったかも……」
ここにいると、フォロワー数やコメントのことはどうでもよくなる。
ただ、雨の音と、温かいスープの香り、そして静かな森だけがすべてだ。
夜が深まるにつれ、雨は本格的になった。
タープが時折大きく揺れるが、現代のしっかりしたロープとペグのおかげでびくともしない。
悠真はシュラフに包まり、ランタンの柔らかい光の下で本を読み始めた。
持ってきたのは軽いミステリー小説。
ページをめくる音と雨音が重なり、心地よい眠気が訪れる。
ふと、雨の音の中に別の音が混じった気がした。
木々の間を、何か小さな影が動いている。
先週見た四つ足の生き物より一回り小さい。
目が淡く光り、雨に濡れた毛並みが艶やかに輝いていた。
魔物か野生動物か——悠真は息を潜め、静かに観察した。
影はこちらを警戒しながらも、近くの木の根元で何かを探しているようだった。
数分後、満足そうに去っていった。
危害はなく、ただ森の住人として共存しているような感覚だった。
「ここでも、生き物は静かに暮らしてるんだな」
雨の中でそんな光景を見ていると、現代の忙しなさがますます遠く感じられた。
悠真はランタンを少し暗くし、シュラフの中で目を閉じた。
雨音が子守唄のように体を包み、深い眠りへと誘う。
朝が来た。
雨は小降りになり、森全体が霧に包まれていた。
木々の葉から滴る水滴が、朝陽にきらめいている。
空気は冷たく澄んでいて、雨上がりの新鮮な土と草の香りが濃く漂っていた。
悠真はタープの下で起き上がり、大きく深呼吸した。
肺に満ちる空気が、体中の澱を洗い流してくれるようだった。
今朝は温かい朝食を作ってみる。
クッカーでスープを温め直し、持ってきた食パンにチーズとベーコンを乗せてガスバーナーで軽く焼く。
先週持ち帰った赤紫の実を刻んで添える。
雨上がりの湿った空気の中で食べる朝食は、味が一段と染みて感じられた。
コーヒーを淹れると、香りが雨の森に溶け込み、格別のリラックス感を生む。
スマホで撮影はしたものの、投稿はしない。
代わりに下書きフォルダに丁寧に保存し、「いつかまた投稿できる日が来たら……」と心の中で呟いた。
雨がほぼ止んだ頃、悠真はタープを畳み、軽く散策を始めた。
雨で濡れた森は、苔がより鮮やかに輝き、小さな花が顔を覗かせていた。
清流の水量が増し、せせらぎの音が力強くなっている。
木の根元には、先週見つけた淡い黄色の花が雨に打たれて少ししおれていたが、それでも健気に咲いていた。
「この花、乾燥させてお茶にしたらどうなるかな……」
数輪を丁寧に摘み、バックパックにしまった。
異世界の素材で現代に持ち帰れるものが増えていくのが、少しずつ楽しみになってきた。
午前十時頃、門がゆっくりと薄れ始めた。
悠真は名残惜しそうに雨上がりの森を振り返り、光の門をくぐった。
現代のキャンプサイトに戻ると、テントは少し湿っていたが、焚き火台の灰はきれいに残っていた。
撤収作業を終え、軽自動車でアパートへ帰る道中、悠真は車窓から流れる景色をぼんやり眺めた。
インスタの投稿を止めたことで、心に少しの寂しさはあった。
しかし、それ以上に、秘密を守れた安心感と、雨の森で得た穏やかな時間が胸を満たしていた。
「バズりは一旦お休み。
俺はこの場所を、ちゃんと自分の癒しの場として守っていこう」
アパートに戻り、シャワーを浴びてベッドに横になる。
雨の音とコーヒーの香り、温かいスープの味が、まだ体に残っていた。
月曜からの仕事も、もう少しゆったりとした気持ちで向き合えそうな気がした。
秘密の焚き火は、今日も俺の心を優しくリセットしてくれた。
雨の森での一夜は、インスタの波紋を忘れさせるのに十分な、静かな贈り物だった。
(第8話 終わり)




