第7話 特定班の影と、森の小さな贈り物
水曜の夜、佐藤悠真はアパートの部屋でスマホを握りしめ、ため息をついていた。
インスタのフォロワーは一千八百人を突破し、コメント欄はますます熱を帯びている。
特に問題なのは、ある「キャンプ場所特定班」と称するアカウントの動きだった。
「この写真シリーズの星の位置を複数解析した結果、国内のどのキャンプ場とも一致しない。
空の明るさや木の種類からも、明らかに日本国内ではない可能性が高い。
作者さん、もし本物の写真ならぜひ情報共有を! 共同調査しましょう。」
その投稿はすでに五百以上のいいねを集め、リポストも広がっていた。
悠真は慌てて自分のアカウントの投稿を非公開に切り替え、過去の写真を一つずつ見直した。
星の配置、湖の透明度、木々の葉の形——確かに、ぼかしたつもりでもプロの目には怪しく映る部分が多い。
「やばい……本気で特定されそう」
インスタを続けたい気持ちと、秘密を守らなければならない現実が、胸の中でせめぎ合う。
バズる喜びは大きいが、万一異世界の存在がバレたら、会社どころか研究機関やマスコミにまで話が飛び火するかもしれない。
悠真は決意した。
当面は投稿を控えめにし、異世界での撮影もより慎重にぼかす。
それでも、心のどこかで「この美しい景色を誰にも見せられないのはもったいない」という思いがくすぶっていた。
木曜の夜。
今週は残業が少し増えたが、疲れ果てたレベルではない。
それでも「週末のご褒美」を少し前倒ししたくなり、仕事が終わった午後九時にキャンプ場へ向かった。
アパートから山奥までは慣れた道のり。
車内で流れる穏やかな音楽を聞きながら、異世界でのんびりするイメージを思い浮かべた。
キャンプ場に着いたのは夜十時。
他の人はおらず、完全に貸し切り状態だった。
ヘッドランプの光を頼りにテントを素早く設営し、焚き火台に火を起こす。
炎がパチパチと音を立て、煙が夜空へ昇っていく。
缶ビールを一口飲むと、肩の力が自然と抜けた。
「今夜は、投稿を控える代わりに、もっと奥を探索してみよう」
焚き火を見つめ、心の中で静かに願う。
すると、炎の中心が青白く輝き始め、煙が渦を巻いた。
光の門がゆっくりと開く。
向こう側には、いつもの森と湖のシルエット。
疲れ果てていなくても、ちゃんと応えてくれる。
その安心感が、悠真の胸を温かくした。
バックパックにコーヒーセット、簡単な朝食材料(食パン、卵、ベーコン、チーズ)、ナイフと小型クッカーを詰め、門をくぐった。
異世界の夜風が頰を撫で、甘い草と木の香りが体を包む。
湖畔を少し離れ、先週見つけた清流のさらに上流を目指して歩いた。
ランタンの柔らかい光が木々の間を照らし、足元を優しく導く。
三十分ほど進むと、清流が少し広くなった小さな淵が見つかった。
水が透明で、底の小石が星明かりにきらめいている。
ここを今夜のキャンプ地に決めた。
シートを広げ、小型ガスバーナーで湯を沸かす。
異世界の清流の水で淹れるコーヒーは、今夜も格別だった。
香りが濃く、苦味と甘みのバランスが絶妙で、一口飲むだけで心がほっと落ち着く。
夜が更け、シュラフに包まって横になる。
清流のせせらぎが子守唄のように聞こえ、木々の葉ずれの音が優しく響く。
インスタの特定班の影も、現代の仕事のプレッシャーも、ここでは遠い出来事のように感じられた。
星空の下で眠る開放感は、現代のテント泊とは全く違う心地よさだった。
朝が来た。
異世界の森の朝は、いつもより一層穏やかだった。
木々の隙間から差し込む柔らかい朝陽が、霧を淡く染め上げている。
清流の水面がキラキラと輝き、朝露に濡れた葉が宝石のように光っていた。
鳥のような小さな生き物のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
悠真は起き上がり、大きく深呼吸した。
冷たくて甘い朝の空気が、肺いっぱいに広がり、体全体をリフレッシュさせる。
「ここに来ると、本当にすべてがリセットされる……」
今朝は少し手の込んだ朝食を作ってみることにした。
クッカーで清流の水を沸かし、インスタントのスープを温める。
もう一つのクッカーで、食パンに卵とベーコン、チーズを乗せて軽く焼くシンプルなホットサンド風。
異世界で先週見つけた赤紫色の小さな実(毒がないことを前回少し試食して確認済み)を刻んで添える。
甘酸っぱい実の風味が、ベーコンの塩気とチーズのコクに意外とよく合う。
一口食べると、現代のどんな朝食より満足感があった。
朝食を味わいながら、スマホで慎重に撮影した。
霧のかかった清流と、湯気の立つコーヒー、そしてホットサンド。
背景の木々をしっかりぼかし、空の色を調整して「日本の山奥の秘境渓流朝食」風に。
でも、今朝は投稿を控える。
代わりに下書きフォルダに丁寧に保存した。
撮影を終え、悠真は淵のほとりに座ってしばらく景色を眺めた。
心が、完全に癒されていた。
インスタの波紋で感じた焦りも、ここではただの小さな風のように過ぎ去っていく。
ふと、近くの木の根元に、昨夜は気づかなかった小さな変化があった。
赤紫の実が少しだけ増え、隣に淡い黄色の花のようなものが咲いている。
悠真は慎重に一つ摘み、匂いを嗅いでみた。
ほのかに甘い、蜂蜜のような香り。
「これは……現代に持ち帰って、乾燥させてお茶にしたらどうなるだろう?」
異世界の素材を現代で活かす——新しい楽しみが、また一つ増えた気がした。
小さな実と花を数個、バックパックに丁寧にしまい込んだ。
午前九時半頃、門がゆっくりと薄れ始めた。
自然と現代側へ引き戻される感覚。
悠真は名残惜しそうに清流と森を振り返り、光の門をくぐった。
現代のキャンプサイトに戻ると、焚き火の灰は冷たく、テントは朝露で少し湿っていた。
撤収作業をしながら、悠真は小さく微笑んだ。
「インスタは当分控えめにしよう。
でも、この場所は絶対に守って、もっと楽しむ」
アパートへ帰る車の中で、コーヒーの余韻と朝食の満足感がまだ体に残っていた。
月曜からの仕事も、もう少し前向きにこなせそうな気がした。
秘密の焚き火と異世界の森が、俺の心に静かな力を与えてくれている。
夜、ベッドに横になりながら、悠真は天井を見つめた。
フォロワーが二千人に近づいているという通知が来ていたが、今は開かずに放置した。
代わりに、心の中で次のキャンプの計画を立て始めた。
清流の上流、湖のさらに奥、丘の向こう側……
まだ知らない場所が、たくさん待っている。
少しずつ、俺だけの秘密のソロキャンプ地を広げていこう。
焚き火の揺らめきが、静かに俺を呼んでいるような気がした。
(第7話 終わり)




