第8診『業火』
「正直言ってイカれてんだよアイツは」
「え、いや! だって写真では全身に包帯を……」
「だから言ってんだろ。アイツは全身やっちまったんだよ。あの包帯の下を見たことがある訳じゃねェが、きっと人間のソレではねェだろうな」
そう言うと橘は「そろそろ出るぞ」と向井の背中を軽く叩き、席を立った。
「ちょっ、待ってくださいよ、先輩!」
向井は慌てて荷物を手に取り、その後を追いかけた。
X区の夜はとても静かだった。
つい最近テロ事件が起きたにも関わらず、街並みはその痕跡すら感じさせることなく、何事もなかったかのような穏やかさを見せている。
そのことに向井はわずかな疑問を覚えていた。
そんな向井の様子を察したのか、橘がふと口を開く。
「そういえば、お前、中央都市出身だったか?」
「はいっ、そうっす!」
「なんだ、甘ちゃん育ちじゃねェか。道理で世界が見えてねェわけだ」
橘は可笑しそうに声を上げて笑った。
その様子に少し苛立ったのか、向井はムッとした顔で言い返す。
「そうっすよ! 守られた場所で育ったからこそ、A.C.E.に入ったんすよ! そういう先輩は、どこ生まれなんすか?」
そう返されると、橘はどこか嬉しそうにニヤリと笑った。
そして腕を組み、遠い記憶を振り返るように空を仰ぐ。
「どこ生まれか——そんなことを聞かれたのは、このゴミみてェな組織に入ったとき以来だ!」
そう言って、橘は高らかに笑った。
「俺は生まれも育ちもX区だ。あ、いや、今はY区って呼ばれてんだっけか。まぁ、悪かねェところだったよ」
「——だった、ってどういうことっすか?」
「あぁ……まぁ、当然の疑問か」
橘はおもむろに視線を落とした。
眉を顰め、親指と人差し指で顎を挟むと、考え込むように首を傾げる。
やがて軽く溜息を吐き、向井へと視線を戻した。
「まぁ、なんだ。20年前になくなっちまったんだよ」
「え……それって、ゴーストタウンになったってことですか……?」
橘はゆっくりと歩みを止めると、困ったように頭を掻いた。
「そうじゃねェ。言葉ん通りの意味だ。消えちまったんだよ。丸ごとな」
予想だにしなかった言葉に、向井の歩みも止まる。
薄々、感じてはいた。もしかすると橘には並々ならぬ過去があるのではないかと。
これほど熱心に任務へ打ち込む人間を向井は他に知らない。
発現者を前にしたとき、その瞳には計り知れないほどの憎しみが宿る。隊員にも執行対象にも恐れられるその姿はまるで鬼のようであり、戦う姿など、もはや人間のそれとは思えないほど苛烈だった。
だが、向井にとっては、そんな橘の姿こそが憧れでもあった。
ただ、その憧れはあまりにも軽率なものだったのかもしれない。向井はそう思わざるを得なかった。
本来なら、これ以上は聞かないほうがいいのだろう。
別の話題へ移るべきなのだろう。
それでも、気づけばその思いは声となっていた。
「街が消えたって……どういうことっすか……?」
橘は俯いたまま、しばし沈黙した。
やがて、その口から今まで聞いたこともないほど覇気のない声が漏れる。
「あれは……そうだな。俺がまだ高校に上がったばっかのガキンチョだった頃の話だ。おい、戻りながら話すぞ」
橘は止めていた歩みを再び進める。
「向井、これを誰かに話すのはお前が初めてになる」
「なんか特別っすね!」
「……だな」
これから語られるのが、決して明るい話ではないことくらい向井にも分かっているはずだ。それでも明るく返してくれた後輩に、橘は思わず笑みをこぼす。
あまりにも興味津々といった瞳で見つめてくる向井の頭を撫で回すと、その顔を見ることなく話を続けた。
「あんときゃ、俺は学校にいてよ。今でも覚えてる。変に気の合う奴がいたんだ。何かにつけて『グッジョブ遥歩ゥ!』とか、よく分かんねェこと言ってくるバカな野郎だったよ」
その頃の光景がよほど鮮明に蘇ったのか、橘は鼻から息を噴き出すように笑った。
「そんときゃ確か、昼休みだったか。親友がプロレスごっこやってんのを見て、バカみてェに笑ってた。今思えばスゲェ幸せだったよ」
「鬼の橘にも……子供ん時があったんすね……」
「当たり前だ! このアホ!」
橘がわざとらしく拳を振り上げると、向井もわざとらしい笑みを浮かべながら両手を上げ、腰を屈める。
「ったく……まぁ、そんなときだ。あの大事件が起こったのは」
「…………『9.9.9事件』っすね」
橘は答えることなく、歩きながら静かに頷いた。
その瞳にいつもの猛々しさはなく、ただ遠い過去を見つめるような、切なげな色だけが浮かんでいた。
「それで、俺の親友も家族も、ひとり残らず仏様になっちまった。俺だけ置いてな」
橘はまるで可笑しな話でもしたかのように笑みを漏らした。
「なんで俺だけ生きちまったんだろ。そう思ったさ。そりゃァ……何度も、何度も……何度もォ!!!」
その瞬間、橘の周囲が凄まじい熱気で満たされる。
おっと、いけない——そう思った橘は、ハッと我に返り、慌てて眉間に指を押し当てた。
何事かをぶつぶつと唱えるにつれ、周囲に立ち込めていた熱気が少しずつ引いていく。
「すまん。取り乱した」
「いや、俺は別に大丈夫なんすけど……先輩こそ、大丈夫っすか……?」
「大丈夫だ……過去を思い出すといつもこうなりやがる……」
何度か深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸を整えると橘は再び話を続けた。
「あん時現れた奴の能力は、確か『視たものを粉微塵にする』ってものだったらしい。それは見事にあらゆるものがサイコロステーキになっちまってたよ。まったく、傑作だよな」
橘は片手で目元を押さえ、天を仰ぎながら笑い飛ばした。しかし、もう一方の拳は血管が浮き出るほど固く握り締められていた。
「その先は地獄だったぜ。いや、自分から地獄に飛び込んでやったよ。またそいつが現れた時には圧倒的な力で捩じ伏せて、今度こそ抹殺してやるって心に誓ってな」
鬼だ。橘の中には鬼神が宿っている。
歯を食いしばり、憎しみに駆られたその形相に、向井はいつも橘から感じていた覇気の根源を垣間見た気がした。
しかし、橘は俯き、固く握ったままの拳をしばらく見つめた。
浮き出た血管がゆっくりと皮膚の下へ沈んでいく。やがて指を一本ずつ解くと、凪いだ声で続きを口にした。
「……まぁ、その結果がこれだ。自分自身も『憤怒』の発現者になっちまって、何がしてェんだか分かんねェ有様だがな。結局、発現者を殺すには、己もそれ相応の犠牲を払わなきゃならなかったのかもしんねェな……」
「でも俺、今の先輩結構好きっすよ」
「アァ?」
一拍遅れて橘の口から間の抜けた声が漏れた。
「だって先輩、マジでカッコイイじゃないっすか! 炎バーッて! 超カッコイイっすよ! 素手で全部薙ぎ払ってく姿とか、みんなの憧れっすよ!」
「おいおい、急に何言ってやがんだ、お前」
鼻息も荒く、炎でも振り回すかのように両腕をぶんぶんと動かす向井を前に、橘は半歩だけ後退った。
先ほどまで鬼神を思わせた男の手が、今は行き場をなくして宙を彷徨う。
「何って、先輩は今のままで全然いいってことっすよ」
橘の目が、わずかに見開かれた。
胸の奥で二十年も凝り固まっていた何かに、たったそれだけの言葉で呆気ないほど小さな亀裂が入る。
何かを言いかけた唇が、一度閉じる。
やがて、その端がほんのわずかに持ち上がった。
二人分の足音だけがしばらく夜道に続いた。
やがて、橘は前を向いたまま足音に紛れるほどの声を落とす。
「……ありがとな」
「え? なんすか?!」
「うっせェ!」
橘の歩幅が露骨に大きくなった。
数歩遅れて向井の足音がその背中を追いかける。
「てか、レーアの話してくれるって言ったじゃないっすか! 教えてくんないんすか!」
「また今度だ! 今そいつの話すんな! イライラすんだよ!!」
いつもなら足音しか響かない夜道を、この夜だけは二人分のやかましい声が占領していた。
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.008】
-登録名称:Y区
-区域分類:危険指定区画
-公開区分:一般
中央都市外に存在する都市区画のうち、治安および生活基盤が著しく損なわれた地域の総称。
異能犯罪や大規模災害によって復旧が困難となり、行政機能を維持できなくなったX区はY区へと再分類される。
区域内には損壊・放棄された建造物が多く残されており、電気・水道などの生活インフラや医療体制も安定していない。行政による正確な居住者数の把握も困難となっている。
現在も行き場を失った発現者が数多く生活している。監視設備が整備されていないため、異能犯罪が発生しても、発見および対応が大幅に遅れる場合がある。
一般には「ゴーストタウン」と呼ばれることも多いが、必ずしも無人の区域を意味するものではない。




