第7診『異能』
「先生!」
レイナが診療所の中から顔を覗かせる。
その後ろには長江の姿もあり、二人とも怪我はない。どうやら被害は免れたようだ。
「それにしても先生。橘って人なんかすんごい怒ってましたね」
「あれさえなければ良い人なのですが……。まぁ、あの怒りこそがあの方の原動力でもありますから。なんとも言えませんね……」
レーアは悩ましげに頭を掻く。
「それはそうと、レイナさんの異能はいつ見てもすごいですね」
「そりゃあ、先生の一番弟子ですからね。これくらい、お任せください!」
そう言うと、レイナの身体が徐々に透け、その輪郭ごと薄れていく。
「私のこの『永久不滅の愛』は、存在そのものを消す能力ですから。かくれんぼならお手の物です!」
言い終えると同時にレイナの姿が元へ戻り、これでもかというほどのドヤ顔を披露する。
「今はまだ触れているものにしか作用させられませんが、攻撃をすり抜けられる上に偵察にも使える。それは誇っていい能力です」
「先生ほどじゃありませんよ〜」
そんな二人の会話に、一人置いていかれる長江。
しかし、それは二人がイチャつき始めたからでも、先程のレーアと橘の戦いが激しすぎたからでもない。
今の一連の会話の中で長江の常識を根底から覆す言葉が、あまりにも当然のように語られていたからであった。
「あの、すみません。少しよろしいでしょうか」
「どうされましたか、長江さん?」
「先ほど、『存在』を消す能力と仰いましたか……?」
「うん。それがどうかしたの、長江お姉さん?」
「いや、おかしいでしょう!」
長江が珍しく声を荒らげる。
その剣幕にレーアとレイナはぴたりと口を閉ざし、そろっておとなしく長江へと身体を向けた。
「異能とはいっても、発現者ができるのは精々自然現象を操り、その規模を増幅させる程度です。未だ固有能力を使えない私が言うのもなんですが、固有能力でさえ精神への干渉か、物理法則の延長線上にある現象を引き起こすのが限界です」
そこまで言い切ると長江は俯き、両の拳を固く握り締めた。
「ですが、存在を操るだなんて……人が持ち得ていい力の域を超えています! そんなもの、概念そのものを操っているようなものではありませんか!」
「——その通りです」
肩がわなわなと震え、食いしばった歯の隙間から微かに息が漏れる。
どうにか冷静さを保とうとするものの、目の前の事実は彼女の常識では到底受け入れられるものではなかった。
しかし、そんな長江の動揺を前にしてもレーアはあくまで穏やかだった。ゆっくりと彼女の前へ歩み出ると静かに口を開く。
「長江さん。ひとつ、いいことを教えてあげましょう。いずれ貴女が固有能力に目覚める、そのきっかけになるかもしれません」
長江の肩の震えがわずかに止まる。固く握り締めた拳はそのままに彼女はレーアを見上げた。
レーアは包帯に覆われた細い指を一本立てる。
「いいですか、長江さん。異能の強さはその根源となる感情の強さに比例します。誰もが初めはその法則に則って異能に目覚めます」
そこでレーアは言葉を切った。
風が木々を揺らし、ざわりと葉音を立てる。レイナも先ほどまでの無邪気な笑みを消し、黙ってレーアを見つめていた。
「では、発現者となった後——人格が崩壊するほどの絶望、あるいは昂ぶりに呑まれた場合、何が起こると思いますか?」
長江は答えることが出来なかった。
答えが分からないのではない。その問いの先にあるものに本能が拒絶を起こしていた。
しかし、止まることなくレーアは立てていた指をゆっくりと下ろし、語り続けた。
「もう察しの良い長江さんなら、理解されているかとは思いますが、あえて語らせていただきます」
「発現者は、果てしない狂気と引き換えに人知を超えた力を手にする権利が得られるのです。そして、選ばれたものは概念と呼ばれるものでさえ、捻じ曲げられるようになるのです。」
自分の絶望を誰かものと比べるつもりなどなかった。
それでも、長江は思わずにはいられなかった。
あの惨劇を経ても尚、自分はその領域に指先すら触れられていない。ならば、自分が味わった絶望など目の前の二人に比べれば取るに足らないものだったのか、と。
脳裏にあの日の記憶が蘇る。
炎に包まれた校舎。床に力なく横たわる友の姿。周囲を炎に塞がれ、ただ死を待つことしかできなかったあの時間。
喉の奥がヒリつき、呼吸が浅くなる。止まったはずの肩が再び小刻みに震え始めた。
思い出すだけでもなお、身体があの日へ引き戻されるほどの惨劇だった。
それでも、目の前の二人はあの記憶さえ霞むほど凄惨な過去を背負っているというのか。
だというのに、二人は先ほどまで何事もなかったかのように和気藹々と笑い合っていた。
その光景を思い返した途端、長江の胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「ちなみに、私の異能についてはまだ説明していませんでしたね——」
その言葉を合図にしたかのように、山の端へ沈みかけていた夕日へ黒い雲が重なる。
雲に呑まれる直前の赤い光がレーアの影を異様なほど長く引き伸ばした。その影が長江の足元へ触れた瞬間、夕日は完全に覆い隠され辺りが薄闇に沈む。
風が止まり、それまでざわめいていた木々さえ息を潜めたように静まり返った。
包帯に覆われたレーアの顔がゆっくりと長江へ向けられる。
「私の感情は『怠惰』。そして、その異能は——『因果』を操るというものです」
偶然、雲が夕日を隠しただけだったのだろうか。それとも──そう考えてしまう程に今目の前に立つ男が悍ましく感じられた。
この瞬間、長江は初めてレーアという存在に底知れない恐怖を覚えた。
——同時刻。X区・ラーメン屋。
「アイツは、発現者の中でも特に異常だ」
丼から麺を持ち上げ、そのまま啜りながら橘が切り出した。
「異常……っすか?」
青年は箸を止め、怪訝そうに橘へ顔を向ける。
「アイツって、今日の標的だったレーアのことっすよね?」
「あぁ、向井お前は知らねェだろうが、アイツは昔、あり得ねェほど名の知れた医者だったんだ。12年前、表社会からも裏社会からも忽然と姿を消しちまったがな」
「そうだったんすね。でも最近はちょくちょく情報を見掛けるじゃないっすか」
橘は返事の代わりに麺を啜り、丼の縁へ箸を置いた。立ち上る湯気の向こうで、その目が鋭く細められる。
「そうだな。だが、それもここ一年ほどの話だ。それ以前は誰ひとりとしてアイツの消息を掴めなかった」
橘は丼へ視線を落としたまま、わずかに声を低くする。
「恐らく、アイツは自分から姿を現しやがったんだ。何を考えてるのかは知らねェが……何の目的もねェってことだけは、まずあり得ねェだろうな」
そう言い終えると橘は器を持ち上げ、残っていたスープを一気に飲み干した。空になった器を勢いよくカウンターへ戻す。
「にしても、アイツにはそもそも感情のストッパーってもんがねェ。それがアイツの異常性の根源だ」
「先輩がそれ言うんすか?」
「うっせェ!」
間髪を入れず、橘の手が向井の頭へ飛ぶ。
ぺしん、と乾いた音が鳴った。
「ふぐっ! 今、まだ食べてる途中でしょうがッ!」
向井は慌てて口元を押さえ、噴き出しかけた麺をどうにか飲み込む。恨めしそうに橘を睨むものの、彼は素知らぬ顔をしながら話を続けた。
「アイツはな、こと人助けとなると際限なく力を尽くしちまう奴でな。そこだけ聞けばご立派だが……『やり過ぎ』なんて言葉じゃ生温い。自分を使い潰すことすら躊躇いってもんがねェ」
「それって、具体的にはどのくらいなんすか?」
尋ねられた橘は、すぐには答えなかった。
空になった器を見つめたまま、指先でカウンターを一度だけ叩く。その沈黙を埋めるように、店の奥から麺を湯切りする音が響いた。
「……向井。標的資料は読んだか?」
「はい。レーアってあの包帯でぐるぐる巻きの人っすよね」
「なんで、あんな格好してんだと思う?」
「そりゃあ、何かの事故に遭ったとか——」
そこで、向井の声が途切れた。
事故や火傷が理由なら、橘がわざわざこんな聞き方をするはずがない。
箸を持つ手が止まり、脳裏をよぎった嫌な想像に向井の表情が強張る。
「……まさか」
「今、お前が考えたことは恐らくハズレじゃねェ」
橘は向井の顔を横目で見ながら低い声で告げた。
「そうだ。アイツは一人でも多くの人間を少しでも早く、より確実に救うために自分の全身を『改造』しちまったんだよ」
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.007】
-登録名称:X区
-区域分類:一般人・発現者混住区
-公開区分:一般
中央都市の外部に位置する都市区画。発現の有無による居住制限は設けられておらず、発現者と一般人が同じ区域内で生活している。
居住者の多くは中央都市の月額会費を継続して支払うことの出来ない者、または発現者であることを理由に中央都市への入域を認められなかった者で構成される。
中央都市とは異なり、MCの埋め込みや防犯システムによる発現の自動検知は義務づけられていない。そのため、区域内で新たな発現者が確認された場合、住民からの通報や各機関の巡回によって対応が開始される。
地区によって治安やインフラの整備状況には大きな差があり、異能犯罪による被害から復旧していない地域も少なくない。
法律上、中央都市とX区の住民に身分上の差は存在しない。しかし、受けられる保護と安全には、明確な隔たりが生じている。




