第6診『正義』
レーアは袖を掴んでいたレイナの手を宥めるように軽く叩くと、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「全く……志を持つこと自体は大変結構なのですが……」
「先生、誰なの?」
レイナはレーアの袖から手を離し、轟音のした方を指差した。
長江も表情を引き締め、扉の向こうへ鋭い視線を向ける。
「誰よりも実直で、誠実で、真面目で……私達とは決して相容れない方です」
レーアは諦めたように肩を落とすと、長い歩幅で扉へ向かった。
長江もその後に続こうとするものの、取っ手に手を掛けたレーアがもう片方の手を上げてそれを制する。
「お二人は、絶対に姿を見せないでくださいね。事態が余計に拗れますので。可能であれば、物音を立てずに此処から退避していただけると助かります」
あまりにも淡々と告げられた指示に、長江は訝しげに眉を寄せる。
その隣ではレイナがレーアと窓を交互に見た後、こくりと首を傾げていた。
「オイッ! 闇医者ァ! 居るんだろォ!」
診療所の外から空気を震わせるほどの怒号が響いた。
声に込められた憎悪と怒気は、扉一枚を隔ててなお肌を刺すほど剥き出しだった。
怒号が響くや否やレーアは間髪を容れず扉を開け、そのまま外へ踏み出した。
背後の二人を隠すように扉を閉めると声の主へ静かに向き直る。
「はい……生憎、手狭な診療所ですので、そこまで声を張らずとも十分に聞こえておりますよ」
レーアの目の前には一人の大男が立っていた。
暗い赤紫色の髪はオールバックに撫でつけられ、顔には数多の疵が刻まれている。
はち切れんばかりに膨れ上がった筋肉に押し広げられ、身に着けたスーツは見るからにパツパツになっている。
体格だけならば、ゴリラと形容した方が近いかもしれない。
レーアは男の背後へ視線を移す。そこでは蝶番ごと外れた玄関扉が、壁にもたれかかるように倒れていた。
「それはそうと、橘さん。扉が閉まっている時は、まずインターホンを押してくださいといつも申し上げていますよね? 何故、毎回壊して入ってきてしまうのですか」
「扉が俺のノックに耐えきれなかっただけだろ。俺の所為にするな」
橘は悪びれる様子もなく、レーアへ太い人差し指を突きつけた。
「テメェこそ、俺が『A.C.E』の隊長。橘 遥歩だと分かっていての態度か?」
対発現者執行部隊「A.C.E」。
異能を用いて犯罪に手を染めた者——通称「異能犯」に対抗すべく設立された部隊であり、警察をはじめとする表の組織では手に負えない異能犯の取り締まりを担っている。
「つまり、私が極悪人だと言いたいのですか?」
「当たり前だ。今回もテメェが犯罪組織の人間を治療したっつー報告が入ってんだよ。でもなきゃ態々こんな山奥まで暇潰しに来ねェよ」
橘は床を踏み鳴らしながら、一歩、また一歩とレーアとの距離を詰めていく。
やがて互いの息遣いさえ届く距離まで迫ると、鋭い眼光でレーアを睨みつけた。
対するレーアは一歩も退かず、身動ぎ一つしないまま、静かに橘と向かい合っていた。
「証拠は有るのですか?」
「証拠なら今、テメェの口から出たじゃねェか」
両者の視線が正面からぶつかり合い、場の空気が一瞬で張り詰める。
もし傍らに第三者がいたなら互いの放つ威圧感に、ほんの数秒とはいえ時が止まったかのような錯覚を覚えただろう。
その沈黙を先に破ったのは、橘だった。
——ゴォッ!!
轟音が響いた時には、既に橘の拳はレーアの眼前まで到達していた。
直後、引き裂かれた空気が遅れて爆ぜ、常人なら立っていられないほどの烈風が診療所内を吹き荒れる。
「ここは傷を癒す場所です。決して、傷を増やす場所ではありません」
レーアが静かにそう告げた瞬間、橘の姿が何の前触れもなく掻き消えた。
——ズドォンッ!!
僅かに遅れて診療所の外から轟音が響く。
玄関から数メートル先では、橘の巨体が大木へ背中から叩きつけられ、その衝撃に太い幹が大きく軋んでいた。
その間、レーアは手を前に翳しただけであった。
「やるじゃねェかよ、Dr.レーアッ!」
——ボッ!
橘の拳が赤く輝き、噴き上がった焔が巨腕を包み込んだ。
その光が弾けた時には、既に振り上げられた拳はレーアの顔面へ届いていた——はずだった。
手応えがない。
拳は虚空を貫き、橘の視界からレーアの姿は跡形もなく消えていた。
直後、背後に気配が生じる。
橘は振り返るより先に地面を蹴り、前方へ大きく跳んだ。
空中で身を捻って向き直ると、着地と同時に再び地を蹴る。
巨体を地面すれすれまで倒し、両脚を大きく開いたままレーアの足元へ飛び込んだ。片脚を両脚の間に捉え、一気に挟み込む——その寸前。
橘の体がレーアの手前で不自然なほどぴたりと静止した。
まるで、二人の間にある距離そのものが橘との接触を拒んだかのように。
突進の勢いを完全に奪われた橘はそのまま地面へ横倒する。
「毎度毎度、どうなってやがる……」
「気は済みましたか? そろそろ話し合いを——」
「まだだァ!!」
橘は横倒しの状態から片腕で地面を叩いて受け身を取った。その反動のまま両脚を踏ん張ると、足元の土を爆破し遥か上空へと跳び上がる。
巨体は一息に生い茂る木々の梢を越え、隼すら凌ぐ速度で空を駆け昇った。
頂点へ達した橘は空中で身体を反転させる。落下によって加速する体の勢いを握り締めた右拳の一点へ集約しながら、一直線に大地へ振り降ろす。
「臥龍転醒ッ!」
着弾点を中心に地面が大きく陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が駆け巡る。
直後、全てを焼き尽くさんばかりの熱波が、轟音と共に辺り一帯へ放射状に広がっていく。
爆風は生い茂る木々を根こそぎ薙ぎ倒し、灼熱は地表を赤く焼けつかせる。巻き込まれた大気さえも歪み、周囲の景色が陽炎のように激しく揺らめいた。
「——気はお済みでしょうか?」
熱波が過ぎ去った先には今にも折れてしまいそうなほど細い男が、何事もなかったかのように立っていた。
「何なんだ、テメェはよ……。化け物が……」
そう吐き捨てながらも、橘は戦慄するどころか愉快そうに口角を吊り上げた。
レーアは不敵な笑みを浮かべる橘を暫し見つめると、戦いの最中から抱いていた一つの疑問を静かに口にした。
「貴方が幾多の修羅場を潜り抜けてきた方だということはその佇まいからだけでなく、幾度も相見えてきた私だからこそ解ります。その上でお尋ねします。何故、固有能力をお使いにならないのですか?」
問いが終わると同時に橘の口元から笑みが消えた。
「何もかも見透かしたような、テメェのその態度が気に食わねェからだよ。……逆に聞くが、何故、俺を仕留めようとしねェ? テメェなら狙える隙なんざ幾らでもあっただろうが」
「……そんなもの、決まっているでしょう」
レーアは徐ろに橘へ背を向けた。
そのまま振り返ることなく、包帯に覆われた拳を強く握り締める。この場に立ってから初めて、その指先に明確な力が籠る。
「もう、患者を増やしたくないからですよ」
その声はどこまでも穏やかだった。
だが、その奥には拭い切れない哀しみと虚しさが滲んでいた。
その言葉を聞いた橘は、構えていた拳を初めて下ろした。
「やはり気に食わねェ。今回の一件も、粗方見当がつく。どうせ、困ってる奴を見捨てられねェとか、そんな理由なんだろ?」
橘は舌打ちを一つ零すとレーアに背を向けた。
下ろした右手を顔の前まで持ち上げ、沸々と湧き上がる怒りを押し殺すように、震えるほど強く握り締める。
「同じ正義を掲げてるってのに、どうしてこうも相容れねェもんかね。……何故、お前はそうまでして身を張る?」
「貴方と同じ想いですよ」
その答えに、橘は奥歯を強く噛み締めた。やがて、握り込んでいた拳からゆっくりと力を抜き、長い溜息を吐く。
「繰り返さねェため、か……。そうだったな。そいつを言われちゃ興醒めだ」
橘は肩越しにレーアを一瞥すると、そのまま山道へ歩き出した。
「今日のところはこれで終いにしといてやるよ。また妙な報告が入ったら、今度こそただじゃおかねェからな」
レーアはそれに答えなかった。橘に背を向けたまま、その足音が遠ざかっていくのを静かに聞いていた。
——口莫山・麓。
「先輩! 先輩! 何ですか、さっきの音! ヤバすぎっすよ!」
甲高い声と共に、紺色のジャケットを羽織った短髪の青年が駆け寄ってくる。
ジャケットの肩口にはカラスを象った紋章があしらわれており、彼もまた橘と同じ「A.C.E」の隊員であることを示していた。
「うるせェなァ。こっちゃァ調査を終えたばかりで疲れてんだよ! 纏わりつくな、気持ち悪ィ!」
「いやいや、隊長いつもどおり暴れたんでしょ! 煙が上がってましたよ、煙! 一体何してたんですか、まったく!」
畳み掛ける青年に、橘は答える代わりにその頭をワシャワシャと撫で回した。
次いで、白い歯を覗かせながら楽しそうに笑う。
「ちょっと宿敵と戯れてきただけだ」
そう告げると、橘は青年を置いてさっさと歩き出した。
「ほら、ラーメン食いに行くぞ!」
返事を待たず、振り向きざまに青年の背中を勢いよく叩く。
「痛ァ!」
青年は叩かれた背中をさすりながらも、それ以上追及することはなく先を行く橘の後を慌てて追いかけた。
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.006】
-登録名称:中央都市
-区域分類:一般人専用区画
-公開区分:一般
発現者から一般人を隔離・保護する目的で設置された都市区画。中央都市への入域および居住には、月額制の会員契約が必要となる。契約者には身分証明と会員資格を兼ねたMCが埋め込まれ、会費の支払いが確認されている間のみ、区域内での生活が認められる。
会費を継続して支払えない一般人は居住資格を失うため、一般層以下の多くは現在もX区に留まっている。
また、居住者が区域内で新たに発現した場合、MCが防犯システムへ信号を送信し、付近に設置された防犯カメラから警報が発せられる。
中央都市は「一般人のための安全地帯」と称されているが、その保護対象にすべての一般人が含まれているわけではない。




