第25診『友人』
──時は少し遡る。
口莫山・診療所、手術室。
白い灯りの下に横たわる紅髪の男。
露わになった胸が浅く上下するたび、静まり返った室内に機械の音が響いている。
レーアは血に濡れた髪を慎重に避ける。
しかし、指先が不自然に歪んだ頭部の輪郭を辿ったところで止まる。
「……頭蓋骨粉砕骨折。一部陥没。頭蓋内出血の疑い有り……」
口にした言葉とは裏腹に、その手付きに乱れはない。
しかし、顔にこびりついた血を拭うたび、次の動作までに僅かな間が空く。血の下から現れる輪郭もまた、本来あるべき形を失っていた。
「鼻骨と頬骨にも骨折が……。頭部を相当な力で圧迫されたようですね」
閉じられた瞼の下には、乾ききらない血の跡。
いつも白い歯を剥き出しにしていた口元は、今や僅かな呼吸を漏らすばかりだった。
レーアは照明の向きを変え、首元へ視線を移す。
左側の皮膚が大きく裂け、その奥では血に濡れた筋肉が露出していた。
「左頸部の裂傷。筋肉にまで達している……。こちらは、何かに強く打たれたのでしょうか」
続いて、胸元へと手を添える。
左右で異なる胸の動きを見つめながら、呼吸の音を確かめてゆく。長い指が肋骨に沿って移動し、途中でぴたりと止まった。
「肋骨も複数折れている……。肺挫傷の疑いも……。頭部だけでなくここまで……。一体何をされて……」
レーアは一度だけ手を離した。
手術台の上には今、絶大なる信頼を置いていた塙原がいる。目の前の所見とその事実を結びつけるように、視線が傷口から顔へと戻ってゆく。
「……これで傲り癖は治りそうですか? 番さん」
呼び掛けても、あの豪快な笑い声は返らない。
レーアは止めていた手を再び動かすと、損傷した頭部へ掌を翳した。
「事情は後で伺います。今はまず、その命を繋ぎましょう……」
バチッ。
突如、手術台の上で空間にノイズが走る。
壊れた映像のように景色が乱れ、横たわる塙原の輪郭が一瞬だけ幾重にもブレる。
「因果解析、意識阻害ともに安定……」
ジジッ……。
ザザッ……。
耳障りな音と共に紅髪の男がもう一人、手術室に姿を現した。
その姿は薄く透け、輪郭には絶えずノイズが纏わりついている。
一体。
また一体と──。
塙原を象った幻影が、白い灯りの下に次々と浮かび上がってゆく。
『我が心』
「『患者の聲』……。開始……」
レーアが両手を顔の両脇へ添える。
その瞬間、幻影達の口が一斉に開いた。
喉を引き裂くような悲鳴が重なり、手術室を満たしてゆく。声が途切れるたび、その隙間へ別の絶叫が捻じ込まれた。
手術台の上の塙原は、目を閉じたまま動かない。
レーアはその顔へ視線を落とし、僅かに息を吐いた。
「いつ聞いても慣れませんね……。これが私の罪悪感の表れだとでもいうのでしょうか……」
バチッ。
白い灯りがブレる。
視界を塞ぐ掌。
頭を鷲掴みにする五本の指。
逃れる間もなく、その指が締まってゆく。
メキョッ……。
骨の砕ける音が頭蓋の内側から響いた。
レーアの膝が僅かに折れる。
顔の両脇に添えていた指が手術台を強く掴んだ。奥歯を噛み合わせても、喉の奥から短い息が漏れてしまう。
手術台の上の塙原は目が開くことはない。
問い掛けに答えることもなければ、何があったかを語ることもない。それでも、頭を締め上げた指の圧力がレーアの中へ容赦なく流れ込んでくる。
「……頭部への圧迫……」
息を整える間もなく、別の幻影から首元を押さえられ、横から何かが振り抜かれる映像が映し出される。
そして、その軌道を捉えた瞬間、レーアの首の左側に皮膚を引き剥がされる感触が走った。
顎が跳ねる。
包帯の下から血が溢れ出すような感覚に、思わず指先が首へ滑りそうになる。
しかし、レーアはそれでも平常心を保ち続ける。
目の前に広がる塙原の血濡れた傷口を前にしながら──。
胸を抱えた一体が崩れ落ちる。
その悲鳴に重なるようにして、レーアの呼吸が詰まった。胸の内側を押し潰され、吸い込もうとした息が途中で止まる。
一体の声が途切れる前に、次の一体が叫ぶ。
頭。首。胸。
それぞれが抱える苦痛と、そこへ至った光景が順番すら守らず押し寄せてくる。
レーアは手術台の縁へ落ちていた手を緩める。
しかし、既にその頃には長い指が白くなるほどの力が込められていた。それでも、患者の傷から視線を逸らさない。
「……えぇ、もう分かりました──」
絞り出された声が、重なり合う絶叫に呑まれる。
包帯の下を冷たい汗が伝う。レーアは一度だけ息を吐き、次に呻き始めた幻影へ目を向けた。
「『患者の聲』解析完了……」
ジジッ……。
幻影の輪郭が崩れ始める。
頭を抱えていた腕も、絶叫を吐き続けた口も、淡い光の粒となって解けてゆく。幾重にも重なっていた悲鳴が細く途切れ、最後の一声と共にその姿は失われていった。
残された粒子が一点へと凝縮する。
やがて、その光が静かに広がり、手術台の上の塙原を包み込んでゆく。
胸部を中心として、全身へと薄い蒼に染まってゆく。
光に染まりきったその身体は、仄かな光を放ちながら輪郭を淡く滲ませていた。
「『過去への帰還』……。開始……」
レーアはメスを取り上げた。
蒼を映した刃先が、ゆっくりと光の内側へ沈んでゆく。
まるで、人体解剖でも行っているかのような手付きであった。
切り開く位置を確かめ、刃の角度を変え、横たわる身体に沿って滑らせてゆく。
刃先が進むたび、蒼い光に細い裂け目が走った。
先ほどまで包帯を掴んでいた長い指は、今や僅かにも揺れず、メスを支えていた。
「致命的因果、切除……。希望的因果、縫合開始……」
レーアは切り分けた蒼い光の中へ、掌を突き入れる。
引き抜いたその手には、野球ボールほどの光球が収まっていた。その掌からは淡い輝きが指の隙間から漏れ、包帯を薄く照らしている。
五指が閉じた。その瞬間──。
バチッ。
光球が握り潰され、細かな粒子が飛び散る。
その残光が消えるよりも早く、レーアの指先は縫合へと移っていた。
針が潜り、糸が走る。
その針も糸も、蒼い光そのものだった。目にも留まらぬ速さで動く指の間を、幾筋もの残光が縫うように行き交ってゆく。
潜る。走る。引く。締める。
その繰り返しが、瞬きのうちに幾十も積み重なってゆく。
最後の糸が引かれる。
その瞬間、蒼い光は跡形もなく消え去ってゆく。
包帯の下でレーアが長く息を吐く。
手術台の上には、いくつかの浅い傷を残した塙原が横たわっている。
歪んでいた顔は本来の輪郭を取り戻し、胸も先ほどより深く、緩やかに上下していた。
「全く。何事にも世話の焼ける方ですね……。最後の瞬間、貴方の異能の発動が間に合ったことにしました……。ただ、全ては治し切れていません。安静にしていてください……」
塙原が薄く目を開ける。
白い灯りの下に見慣れた包帯の男が立っていた。
その肩は落ち、手術台の縁についた指先が僅かに震えている。
塙原の視線が、その手元から自分の身体へと移る。やがて、乾いた唇から掠れた笑い声が零れた。
「クハハ……。光栄に思え。感謝してやるぞ、テオド──」
「その名で呼ぶのは止めてください。その名はもう捨てたのです……」
レーアの指先の震えが止まった。
伏せていた視線が塙原の顔へと戻る。
塙原は口元を僅かに緩め、一度だけ目を閉じた。
短く息を吐いてから、改めて目の前の男を見上げる。
「すまなかったな、Dr.LeəЯ」
「クハッ、俺が死ぬとでも思っているのか? 俺が死ぬ時は、死神とやらに俺を殺す権利を返してやった時だけだ。生憎、返す気など更々ないがなッ!」
豪快に笑い飛ばそうと、塙原が口を開く。
ゴホッ……!
しかし、その声は喉の奥で引っ掛かり、咳へと変わった。
胸元へ掌を当て、二度、三度と肩を揺らす。まだ何か言おうと唇が動いていたものの、零れたのは短い息だけだった。
やがて、レーアへ向けていた顔を天井へ戻す。
口を閉じ、今度こそ大人しく瞼を下ろした。
「少しすれば、また異能も使えるようになるでしょう。ひとまず病室まで運びますので、そこで安静にしていてください」
レーアは呼吸が落ち着いたことを確かめ、手術台の脇へ回る。
すると、目を閉じたままの塙原から、低い声が返ってきた。
「あぁ。今回だけは俺の身体を持ち上げることを許可しよう」
「感謝いたします。では、運びますね……」
塙原を病室へ運び終えると、レーアは静かに扉を閉めた。
廊下の壁に片手をつき、暫くその場に立ち止まる。
そして、一旦自室へと戻ると手術衣を脱ぎ、手を洗い、包帯を巻きなおす。
一息ついてから再び廊下へ出ると、応接室の方から食器の触れ合う小さな音が聞こえてきた。
扉を開けば、紫髪を片側で束ねた少女がカップを片手に顔を上げる。
卓上には二つのティーカップが並んでいた。
「ケーキまだ〜?」
「……ふふっ、ひとまず休憩させてくれませんか?」
アイリスはひらひらと片手を振ると、カップを置き直した。
レーアはその向かいへ腰を下ろす。
先ほどまで苦しそうに手術台の縁を握っていた長い指は、今度はティーカップの取っ手をそっと摘んでいた。




