第23話『腕力』
荒れ果てた執務室。
砕け散った窓ガラス。
そして、相対する双柱。
長江と黒斑はその場から動けずにいた。
踏み出そうとしても足が床を離れない。二人の間へ割って入る、その一歩だけがどうしても出すことが出来なかった。
まるで動くことを封じられているのかように。
「そろそろ離してくれないかな? バンバンくん」
「その名で呼ぶな。反吐が出る」
əの足は未だ宙に浮いている。
胸ぐらを締め上げられ、吊るされているというのに女は襟元へ一瞥を落とすだけだった。僅かに寄った眉根さえ、服に皺がつくことを咎めているように見える。
「君さぁ、ボクがなんで『腕力』って呼ばれているか、知らないわけじゃないよね?」
「当然だ。だが、この俺に制圧できぬものなどない。森羅万象、我が手中にある」
「新手のプロポーズかい? 嬉しいなぁ。何年ぶりだろう、プロポーズなんて」
語尾に笑いを含ませたまま、əは片手を持ち上げた。
まるで親しい相手の頭を撫でるような、無造作な仕草。
その五指が、塙原の頭を鷲掴みにする。
次の瞬間。
ブシャッ!
「社長ぉぉおッ!!!」
長江の絶叫が執務室に響き渡った。
鮮血が宙へ弾け、床を、壁を、紅く汚してゆく。
その瞬間、黒斑は不覚にも瞬きをしていた。
ただ一度。
瞼を閉じ、開く。それだけの間であった。
次に目にした時、塙原の強膜は余すところなく漆黒に染まっていた。
その眼や鼻から大量の血が溢れ出している。顔を伝う幾筋もの赤が顎先で交わり、途切れることなく床へと滴り落ちていた。
「へぇ〜、よく耐えたね。感心、感心♪」
「黙れ、俺以外。グフッ……。ハァ、ハァ……」
「じゃあ、そろそろその手を退かしてもらおうか?」
əが右腕を持ち上げる。
そして、ゆっくりと胸の前を横切らせ、左肩の方へと手を添えた。
肩の凝りでも確かめるかのような、気の抜けた仕草。
だが、そこから上体が僅かに捻られる。袖の下で筋肉が張り詰め、折り畳まれた右腕に力が満ちてゆく。
塙原の視界に一瞬、əの唇に弧が描かれたのが映り込む。
「ほら、離して」
ドゴォッ!!!
横薙ぎに振り抜かれた腕が、塙原の身体を打ち払う。
襟元を締め上げていた手が引き剥がされ、身体が床と水平に吹き飛んだ。
踏み留まる足場も、受け身を取る暇もない。
机を薙ぎ倒し、椅子を巻き込み、その身体は一直線に窓際へと叩きつけられる。
そして、意識を失ったまま塙原の姿が窓の向こうへ消えてゆく。
「社長ぉぉおッ!!!」
長江が必死の形相で駆け出す。
だが、伸ばした手の先にあるのは吹き込む夜風ばかり。
窓の外で、塙原の身体が宙を泳ぐ。
一瞬だけ見えた紅髪が窓枠より下へ沈み、そのまま遥か眼下の街へと落ちてゆく。
「いやぁぁあッ!」
「塙原 番……!」
長江の悲鳴に重ね、リコリスがその名を唱えた。
窓の外へ差し出した掌から深紅の光が迸る。五指を緩く曲げ、壊れ物を包み込むように慎重に握り込んでゆく。
長江の視線の先で、足場のない夜空に吊り留められているかのように塙原の身体が停止する。
「随分と必死だね。まぁ、今回はボクの噂をしている気がしたから顔を出しただけだし。この辺でお暇させていただくね?」
「逃げないで……! 卑怯者……!」
「負け犬の遠吠えかな? それじゃあねぇ〜」
əはひらひらと手を振った。
その指先から輪郭が薄れ、紳士服の向こうに背後の壁が透け始める。まるで投影を終えたホログラムのように、əの姿が消えてゆく。
長江は窓枠を掴んだまま、室内へ顔を向けた。
しかし、窓の外で揺れる紅髪が視界の端に映ると、その足は動かなかった。
黒斑の掌には今も深紅の光が灯っている。
憎き女を睨みつけても伸ばした腕は下ろせない。緩く曲げた指が震えるたび、歯を食い縛ってその形を保ち続ける。
幾度となく命を握り潰してきた掌が、今は一人の命を繋ぎ留めていた。
追う者も撃つ者もいない。
最後まで崩れなかったəの笑みが薄れ、やがて、その輪郭さえ跡形もなく消え失せた。
「社長ッ! 社長ぉッ!」
əが去った後、室内へ引き上げられた塙原の傍らに、長江は膝をついていた。
肩へ手を掛け何度も呼びかける。その声にいつもの豪快な笑いが返ってくることはなかった。
薙ぎ払われた際に負ったものだろうか。
首の左側は皮膚が裂け、血に濡れた筋肉が露わになっている。顔の輪郭さえ歪み、先ほどまで辛うじて形を繋ぎ留めていた異能の力も、今は光の一筋すら見せなかった。
「まさか、社長が……。負けるなんて……」
長江の手が止まる。
目の前の顔を確かめるように覗き込んでも、瞼は閉ざされたままだった。
「ワタシも……。思わなかった……。あんなに強かった番さんが……」
黒斑は掌を見下ろした。
今も尚、指の震えは止まることを知らない。
何度攻撃しても笑みを浮かべ、どれほど無茶をしても最後には「俺には出来る」と放言してのける。
その男が、今は呼びかけ一つにさえ応えない。
「……呼吸はあります。すぐに救急車を呼びましょう」
「ううん、間に合わなかったら嫌だから……」
リコリスは右手を頭上へ掲げた。
その合図に応じ、ドレスを纏った女性達が次々と室内へ姿を現す。静まり返っていた執務室に幾つもの足音が重なり、その中から黒髪の女性が歩み出る。
「どうしたの、団長。ここには入ってこないようにって、言っていたじゃない」
ダリアは黒斑の背後へ回ると、その小さな身体を抱き締めた。
黒斑も僅かに顔を向け、肩越しに寄せられたダリアの頬へ掌を添える。
「ゴメンね……。ダリア……。緊急事態なの……」
頬へ触れた手はそのままに、黒斑の視線が床へ落ちる。
その先には、血に濡れた塙原が横たわっていた。
ダリアは床に横たわる男を一瞥すると、集まった団員達へ視線を送った。
「みんな、分かった? それじゃあ、取り掛かって」
「『は〜い』」
返事と同時に、団員達が動き出す。
黒いシート状のものを広げ、塙原の身体を手際よく包み込んでゆく。その動きには一切の迷いも、無駄もなかった。
長江はその連携に頷きかけ、ふと動きを止めた。
男を包む黒いものをまじまじと見つめてから、ゆっくりと黒斑へ顔を向ける。
「あの、つかぬことをお聞きしてもいいかしら?」
「ん……。どうしたの……? 成美ちゃん……」
「これって……ポリ袋じゃ……」
どこからどう見ても、死体処理用の黒いポリ袋だった。
なるほど、手慣れているわけである。普段と違うのは包まれている男にまだ息があることぐらいだ。
「仕方ない……。これしかないから……」
「どうしても他にないの?! これじゃ縁起でもないじゃないっ!」
「文句言わないで……」
黒斑の瞳が、ふいと明後日の方向へ逃げてゆく。
どうやら、これを正しい搬送方法と言い張れるほど、倫理観を捨て切れてはいないらしい。
長江も初めのうちは、ポリ袋に包まれてゆく社長を前に何度も口を開きかけていた。
しかし、今は一刻を争う。ほかに手がないと悟ったのか、大きな溜め息を吐きながらその場へ膝をついた。
「搬送先だけど、手間も省けるでしょうし口莫山へ運んでくれるかしら……。貴女達なら、当然速いのよね?」
「もちろんっ……。団員達はワタシが育てたから……」
黒斑が団員達へ満面の笑みを向ける。
その瞬間、団員達の顔が一斉に凍り付く。
首の骨が心配になるほど激しく何度も頷くと、ポリ袋に包まれた塙原の身体を素早く担ぎ上げる。
そして、まるで何かから逃げるような勢いで、団員達は執務室を後にした。
その背中を見送った黒斑は、何事もなかったかのように長江へ視線を戻す。
口元には、まだあの笑みが残っていた。
「成美ちゃんも受けてみる……? ワタシの教育……」
「受けるわけないじゃない!」
長江が食いつくように返答する。
黒斑はテディベアへ口元を埋め、くすりと笑う。長江は眉を寄せたものの、今度は何も言わずにただ小さく息を吐いた。
割れた窓から夜風が吹き込む。
荒れ果てた執務室に残った二人の距離は、出会った時より、ほんの少しだけ近くなっているような気がした。
《PSYCHO RECORD》
氏名:レイナ
年齢:NO DATA
性別:F
身長:142cm
体重:NO DATA
発現分類:充足型
根源感情:色欲
固有異能:『永久不滅の愛』
《好意を抱いた対象の存在を希釈する》
身体所見:長い黒髪/ポニーテール/青いワンピース/絶世の美少女
精神所見:友好的かつ楽観的で、他者との距離を縮めることに躊躇がない。一方、レーアに対しては際立って強い執着を示し、親愛の範疇に収まらない言動が認められる。
脅威度:★★☆☆☆
特記事項:
・レーアが現時点で最後に仲間へ迎え入れた人物。彼を「先生」と呼び、傍らで行動を共にしている。
・来客時には茶を用意するなど、日常的な応対を担う。レーアの隣に腰掛けるなど、彼との距離は近い。
・レーアに対して異常なまでの好意を示し、自身を彼の妻であると言い張っている。
・固有異能『永久不滅の愛』は、対象の存在を希釈する。ただし、本人が好意を抱いている対象にしか作用しない。
・発動条件となる「好意」は、恋愛感情に限定されない。本人は人懐っこく、比較的容易に他者へ好意を抱くため、この条件が対象を大きく制限するとは限らない。一方、本人が「愛」を向ける相手はレーアのみであり、両者は明確に区別されている。
・ラーメンは塩派。
・好物は先生♡




