第22診『姉弟』
怠惰なる私よ。
後世に任せようと決めたはずだ。
もう悔いは無いはずだ。
何も成し遂げられなかったのだから。
だのに。 だのに。 だのに。
何故、捨て切れないんだ。
適任者がいる?
何かを残そう?
違う、違う、違う、違う!
まだ私の手は動く。足もだ。
ならばあの子の為にも動かなきゃ。
だって君は止まる気がないんだろう?
なぁ? テオ。そうだろう?
「あの……すみません。もう少し距離を置いてもよいのでは……?」
「あっちでは、いつもこんなものだよ……」
「クハハハハッ! よいではないかッ! 別にこの程度ッ!」
椅子へ深く腰掛けた塙原の膝には、テディベアを抱えた黒斑が斜め向きに腰を下ろしていた。
まるで最初からそこが己の席であったかのように優雅な佇まいを見せており、塙原も退かす素振りすら見せない。
あまりにも自然に馴染んでいる二人を前に、長江の眉間へ微かに皺が刻まれる。
「そういえば、成美ッ! 盟友に会ってきたのだったなッ! あの後は詳しく話を聞けていなかった。話を聞いてやろう」
「かしこまりました。それでは、現況をご報告いたします。ただし報告の後、こちらからも伺いたいことが山ほどございまして────よろしいでしょうか?」
「嗚呼ッ! 許可しようッ!」
その返答を受け、長江は軽く一礼する。
再び顔を上げると、その視線だけは社長の膝上へと寄り道していた。
それから長江は、先ほど伝えきれなかった報告の続きを語り始める。
やがて一通りの報告を聞き終えると、塙原は腕を組んだまま小さく顎を上げた。
「ほぅ。なんだ、あのモヤシ。まだまだ現役ではないか。まったく、手紙では『もう戦えない』などと抜かしていたくせにな」
「そのようなことを仰っていたのですね。それにしては、随分と異次元じみたことをなさっていましたけど……」
「クハハハハッ! それを言うなら、瑠璃も同じだったがなッ!」
そう言いながら、塙原は黒斑の頭へ掌を乗せた。
黒斑も僅かに目を細め、その掌へ頭を預ける。
「まあ、その話は後だ。本題に戻るぞ。奴から薔薇ノ園事件の主犯について聞いているはずだ。まずは、その名を教えろ」
「かしこまりました。その主犯の名は──」
黒斑の指が、人形の腹へ深く沈んだ。
先ほどまで緩んでいた唇は固く結ばれ、紅い瞳が長江を捉えて離さない。
あと一言。
その名さえ聞ければ。
その時、塙原の膝上で空間がぐにゃりと歪んだ。
黒斑の輪郭が揺らぐ。その向こうにあるはずの壁までが、歪みの中心へ引き寄せられるようにひしゃげて見えた。
そして、次の瞬間。
「やぁ、ボクの話かな?」
三人が同時に床を蹴った。
椅子が倒れる音を背後に、それぞれ別の壁際へと飛び退く。
つい今しがたまで三人が向かい合っていた、その真ん中。
そこには、紳士服を端正に着こなした見知らぬ女が立っていた。
塙原に笑みはない。
白い歯を覗かせていた唇は固く結ばれ、女を見据える双眸が細くなる。あれほど揺るがなかった余裕が、今はその顔のどこにも見当たらなかった。
「あら? ボクの話じゃないのかい? ……いや、図星だろう? あの真っ赤なお花、誰が咲かせたのか知りたいんじゃないのかい?」
「潰れちゃぇええッ!!!」
喉が裂けんばかりの絶叫。
言い終えるよりも早く、黒斑の五指が握り込まれた。
女を取り巻く空気が、見えざる掌に巻き込まれて圧縮される。一瞬の空白。生じた真空へ周囲の空気が雪崩れ込み、耳を劈く轟音が部屋を揺らした。
それでも、黒斑は手を緩めない。
爪が掌へ食い込むほどに拳を固め、剥き出しにした歯の隙間から、声にならぬ息を漏らし続ける。
その形相は般若と化し、紅い瞳はただ一点、女の姿だけを射抜いていた。
しかし、その女は眉一つ動かさない。
荒れ狂う空気の中心で、まるで自分のために用意された舞台に立つかのように、悠然と微笑んでいた。
「んっんー、すごいねぇ、君ぃ〜。是非ともボクの部下になってほしいよ」
カツ、と靴底が鳴った。
続いて、もう一つ。
握り潰しているはずの距離が、一歩ずつ縮まってゆく。
女は歩調すら変えない。ただ微笑みを浮かべたまま、黒斑の眼前へと近づいてくる。
死神が足音を立てるのなら、きっとこんなにも軽い音なのだろう。
その足音が、黒斑の目前で止まった。
女は胸元へ片手を添えると、深々と一礼する。つい先ほどまで己を襲っていた殺意など、歓迎の拍手にでも過ぎなかったかのように。
「自己紹介をさせていただくよ? 我が名は『ə』。ROSEの首領にして──」
「『腕力の賢者』──」
女の言葉を断ち切ったのは、塙原の低い声だった。
そこにいつもの豪快な笑いはない。女を見据えたまま、その唇が再び固く結ばれる。
「酷いなぁ……。人の自己紹介と美少女の変身シーンは、邪魔しちゃいけないってお約束だろ〜? 何やってくれてるのさぁ」
əはゆっくりと上体を起こした。
口元には笑みを残したまま、視線だけを塙原へと滑らせる。
「なぁ? 『権力の賢者』さん?」
黒斑と長江の視線が、一斉に塙原へ向けられた。
黒斑は唇を僅かに開き、長江もまた、眼鏡越しに──ではなく、その双眸を見開いていた。
しかし、二人とも問い返しはしない。
これまで目の当たりにしてきた、あまりにも常軌を逸した力。その数々に、今ようやく相応しい名が与えられた気がした。
三賢者が歴史の中の存在となった今。
その名と偉業は語り継がれていても、誰がその称号を背負っていたのかまで知る者は少ない。二人もまた、例外ではなかった。
たった三人で世界の衰退を食い止めた者達。
滅びへ傾く時代を押し留め、その先に続く歴史を繋いだ偉人。その存在を知らぬ者などいない。
そのうちの二人が今、この狭い部屋で向かい合っている。
片や、一つでも多くと意気込み、街を復興させた男。
片や、異能犯を黙らせ、夜に静寂を齎した者。
歴史に刻まれた偉業と、目の前に立つ二人の姿。
それらを結びつけるように、少女達の視線が両者の間を行き来していた。
「よくボクだと気が付いたねぇ」
「戯けたことを抜かすなッ! その白髪も、蒼い瞳も、片目を覆う火傷の痕もッ! この俺が忘れるとでも思ったかッ! 名と口調を変えた程度で欺ける仲ではないことぐらい、貴様が一番分かっているはずだッ!」
長江の肩が、僅かに跳ねた。
怒鳴り声なら幾度となく聞いてきた。だが、今の声には、いつものように笑って聞き流せる隙が一切ない。
塙原の眉間には深い皺が刻まれ、食い縛った歯の間から低い息が漏れている。
固く握られた拳は震えていた。それでも女から目を逸らさず、一歩、床を踏み締める。
己の偉大さを誇る笑みも、相手を見下ろす余裕もない。
長江ですら知らなかった男の顔が、そこにあった。
「ヤダなぁ、一緒に世界のお手伝いをした仲じゃないかぁ。権力さん?」
「口を慎め。この場で貴様を我が威光の下に消し飛ばすことなど造作もないぞ」
「君がかい? 無茶言うなよ。『医術』くんじゃあるまいし。君の出力じゃボクの足元にも及ばないよ?」
二人の距離が詰まる。
僅かに背の高い塙原が女を見下ろし、女は顎を上げてその眼差しを受け止めた。
食い縛られた歯と、緩やかに弧を描く唇。
塙原の眉間に皺が深く刻まれる一方で、女は瞬きすら惜しむ様子もなく、その顔を眺めている。
見下ろしているのは、確かに塙原だった。
しかし、見下しているのは──əの方だった。
「貴様、今はイグジストと名乗っているそうだな」
「あぁ、そうだけど?」
「ならば、一つだけ答えろ」
塙原の手が女の胸ぐらを掴んだ。
紳士服が皺を寄せ、締め上げられる。そのまま片腕で吊り上げると、女の靴先が床を離れた。
「9.9.9の首謀者も────貴様で間違いないんだな?」
誰も口を挟まない。
長江は唇を引き結び、黒斑もまた、テディベアを抱く腕を止めていた。女の襟元で、生地の軋む音だけがやけに大きく響く。
それでも、əは胸ぐらを掴む手を払いもしなかった。
宙に浮いた足を僅かに揺らし、塙原の顔を覗き込むようにして、ゆっくりと唇を開く。
「あぁ、そうだとも」
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.014】
-登録名称:三賢者
-公開区分:一部制限
かつて世界の衰退を食い止め、復興への転機を齎した三名の人物に対する総称。それぞれ「医術」「権力」「腕力」の名で知られ、その功績は現在も広く語り継がれている。
【医術】
異能による被害を受けた人々を、外傷・疾病の別を問わず、人智を超えた力で治療したとされる。容姿については、全身に火傷の痕を持つ男性であったと伝えられている。
【権力】
街の復興に大きく貢献したとされる人物。自らの権力を私利私欲のために用いることなく、困窮する人々の救済に惜しみなく振るったと伝えられている。容姿については、黄金の光を身に纏う男性であったとされる。
【腕力】
強大な武力によって異能犯を討ち払い、その存在自体が抑止力となることで、新たな異能犯罪の発生をも未然に防いだとされる。容姿については、白髪の美しい女性であったと伝えられている。
三名の活動を経て復興が進み、各地のゴーストタウンは縮小へと向かった。しかし、その後「医術」と「腕力」が消息を絶ち、三名による活動は途絶えている。
現在も三賢者の名と偉業は広く知られる一方、各人の氏名や詳細な素性を把握する者は少ない。本記録に記載した容姿および功績には、当時の証言や後世の伝承に基づく情報が含まれる。




