第21診『真名』
薄暗い路地裏を二つの光が塗り分ける。
一つは万物を圧し潰す鈍い深紅。
一つは万象を己がものとする眩い黄金。
相容れぬ二色が、今まさに夜の闇を喰らいながら激突しようとしていた。
「クハハハッ! その程度で、この俺を止められるとでも思っているのかッ!」
「みんな死んじゃえッ! アナタもッ! ワタシもッ!」
リコリスの身体から深紅の光が迸り、狭い路地を呑み込むように広がってゆく。その光に触れたものは耳を塞ぎたくなるような破砕音を残し、一瞬のうちに押し潰されてゆく。
路地に並ぶゴミ箱も、朽ちかけた看板も、建物の外壁さえも例外ではない。まるでこの世に存在するための厚みそのものを奪われたかのように平たく圧縮され、横から見ればそこには僅か一本の線だけが残されていた。
「貴様の想いはそんなものか、リコリスッ! この程度ならば、貴様の全てを俺が受け止めてやろうッ!」
「勝手なこと言わないでッ! ワタシを満たせるのはパパとママだけなのッ! ズカズカ心の中に入ってこないでッ!」
リコリスの叫びに呼応し、深紅の光が一層濃くなる。
膨れ上がった光は路地裏を呑み込み、凄まじい音を立てながら、ありとあらゆるものを紙のように押し潰してゆく。
その中心を、塙原は進み続ける。
一歩。また一歩。
万物を圧し潰す深紅を正面から浴びながら、それでも両腕を組み、我が道を阻むことなど何人にも許さぬとばかりに歩み続ける。
浮かべた笑みに偽りはない。
だが、その肉体まで余裕を保っているわけではなかった。
全身の骨肉が軋み、黄金の光は明滅を繰り返している。踏み出すたびに足元のアスファルトが陥没し、身体は今にも形を失いそうなほどの圧力に晒されていた。
しかし、それで倒れるのであれば塙原ではない。
「俺なら出来るッ!!!」
路地裏の両壁を震わせ、夜の闇さえ押し退けるほどの大音声が轟いた。
その声が叩きつけられた瞬間、深紅の光の輪郭が一度だけ大きく歪む。
それでも異能は止まらない。飢えた奈落のように周囲のあらゆるものを呑み込み、潰し、存在していた形すら奪い去ってゆく。
それでもなお、塙原の歩みは止まらない。
やがて黄金を纏った男の光が、リコリスの小さな身体を覆い微かに照らす。
万物を拒絶する少女の眼前へ、万象を我がものとする男がいよいよ辿り着いていた。
「俺に出来ぬことなどないッ! 貴様の心を満たすだと? 容易いッ! 訳もないことだッ!」
「なら、ワタシをどうする気なの?! どう満たすの?! どう開くの?! どう溶かしてくれるの?! 教えてよ! ねぇ! 教えてよッ!!!」
「だから言っただろうッ! 俺の仲間となれッ!」
その一言を境に路地裏から轟音が消えた。
万物を圧し潰していた深紅の光も、行き場を見失ったかのように僅かに揺らぎ、その色を薄めてゆく。
「何を言ってるの……。ワタシにだって仲間はいる……! そんなアナタの仲間になったところで、満たされるものじゃ──」
「戯けッ! 俺の仲間になれと言っているんだッ!」
リコリスは、こてんと首を傾げた。
この男は何を言っているのだろう。
訳が分からない。
そもそも、問いに対する答えにすらなっていない。
どこから理解すればよいのか。何を理解すれば正解なのか。それすら分からぬまま思考だけが空回りし、深紅の光は見る見るうちに勢いを失ってゆく。
そして、その混乱へトドメを刺すように塙原は高らかに言い放った。
「良いかッ! よく聞け、小娘ッ! 森羅万象、元を正せば全て我が手中にあるッ! ならば貴様がこの俺の許へ還ることこそ、最上の愛に満たされるということではないかッ!」
「…………え?」
めちゃくちゃだ。
あまりにも、めちゃくちゃ過ぎる。
道理など欠片もないはずなのに、本人だけは揺るぎない真理を説いた顔をしている。そのあまりの堂々たる姿を前に、リコリスの唇から僅かに力が抜けた。
すぐさま唇を内側へ巻き込み、零れかけた何かを押し殺す。
しかし、耐え切れなかった空気が隙間から小さく漏れ出した。
「なんだ、小娘。俺は何もおかしなことなど言っていないはずだッ!」
また一つ、空気が漏れる。
リコリスは瞼まで固く閉ざし、震える唇を必死に噛み締めた。
「俺は可笑しくなどなァァいッ!」
その絶叫が、最後の一押しとなった。
堰き止めていた空気が、リコリスの口から一気に溢れ出す。
その空気の名は──笑い声。
白く澄んだ少女の声が、荒れ果てた路地裏の奥深くまで響き渡った。
「なにそれっ……。もぅ……。めちゃくちゃだよぉ……」
閉じていた瞳がゆっくりと開く。
目尻から零れた涙を拭うこともせず、リコリスはただ、耐え切れないとばかりに笑い続けていた。
「ほら、言っただろう? この俺の仲間となることこそ、貴様が満たされる最短の道だったというわけだ」
塙原は片方の口角を吊り上げ、白い歯を惜しげもなく晒す。
そこに浮かぶのは己の正しさを微塵も疑わぬ、ムカつくほどに傲慢な笑みだった。
いつしか、路地裏を染めていた深紅も黄金も消え失せていた。
その跡に佇むのは、先ほどまでの騒乱が嘘であったかのような、あまりにも長閑な静寂だけだった。
──プライド本社・社長室
「クハハハハッ! 痛いッ! 痛いぞォッ!」
「社長? いいですか、社長? 能力が切れているのに立ち向かうの、そろそろやめましょうね?」
「え……?! 能力切れ……?! でも、光ってたし……!」
全身の痛みすら笑い飛ばす社長へ、長江の冷え切った視線が突き刺さる。
その傍らではリコリスが紅い瞳を大きく見開き、二人の顔を何度も見比べていた。
「あれほど言いましたよね? 無茶はやめてくださいって」
「クハハハハッ! 無茶なものかッ! 小娘一人を止める程度、無茶のうちにも入らんッ!」
「無茶はしていないんですか?」
「無論だッ!」
「そうですか。なら大丈夫ですね」
『えっ、そこ疑わないの……? 嘘だよ……! 絶対に嘘……! ただの痩せ我慢だって……!』
あまりにも雑な確認と、あまりにも素直な納得。
どうやら二人の間では話がこれで付いたらしい。
二人の変な方向にあっさりとした会話に、リコリスは思わず心の中で突っ込んでしまう。
「では、本題に戻りますが、この娘が新しい仲間というわけですか?」
「そうだッ! 9.9.9事件を追う過程で、薔薇ノ園事件まで調べておいたことが功を奏したようだなッ!」
「9.9.9事件……? あぁ、ずっと昔にあった事件……」
「薔薇ノ園事件まで調べていらしたのですね。そういえば、まだ名乗っておりませんでした。申し遅れましたが、私は長江 成美と申します。よろしければ、貴女のお名前も伺ってよろしいですか?」
そう尋ねられると、リコリスは腕の中のテディベアへ視線を落とした。
暫しの沈黙を挟んだ後、ゆっくりと顔を上げる。その口元には柔らかな笑みが浮かび、紅い瞳は真っ直ぐに長江を捉えていた。
「…………るり……」
「……え?」
「ワタシの名前は、黒斑 瑠璃……。レディベアの団長にして、コードネーム『リコリス』……。闇からさえ恐れられる存在……。よろしく……」
名乗り終えた黒斑は、僅かにはにかみながら笑ってみせた。
その名乗りが何を意味するのか、もはや尋ね返す者はいなかった。
長江は優しく目を細め、塙原はいつものように白い歯を見せつけながら、その笑顔を迎え入れた。
「ほぉッ! 瑠璃というのかッ! よろしくなァッ! 瑠璃ィッ!」
「なんか恥ずかしい……。いきなり名前で呼ばれるの……。なんか恥ずかしい……」
「社長は誰に対しても名前で呼ぶ方ですから。どうかお気になさらず」
そう言って、何故か長江が深々と頭を下げた。
リコリスの視線が、頭を下げる長江から堂々と胸を張る塙原へと何度も往復する。
やがて眉尻だけが奇妙に下がり、なんとも形容しがたい顔が出来上がった。
「クハッ! そういうことだッ! 名前とは、その者がこの世に存在する意義そのものだからなッ! 呼ばぬなど勿体ないッ! これから存分に呼んでやるぞッ!」
その言葉が耳に届いた瞬間、黒斑の瞳が僅かに見開かれた。
今しがたまで浮かんでいた奇妙な表情も消え、真っ直ぐに塙原の顔を見つめる。
パパとママを奪われたあの日。
黒斑 瑠璃という少女もまた、あの赤い庭園へ置いてきたはずだった。
今ここに立っているのは、復讐を果たすためだけに息をするリコリス。
この世界へ抱いた恨みを晴らすため、それだけを理由に今日まで命を繋いできた。
だが、この男は言った。
名前とは、この世に存在する意味そのものなのだと。
そして、その名をこれから何度でも呼んでやるのだと。
あまりにも傲慢で、あまりにも身勝手な宣言。
それなのに──死んだはずの瑠璃が、胸の奥でほんの僅かに脈を打った。
「フフッ……アハハハハッ!」
不意に弾けた少女の笑い声に、長江は僅かに目を見開いた。
対する塙原は一切の戸惑いも見せず、重ね合わせるように豪快な笑い声を響かせる。
「クハハハハッ! そうだッ! 笑うことこそ、己が己を肯定する最たる行為ッ! その余裕こそが、やがて力となるッ! これから嫌というほど、貴様自身を肯定させてやるからなッ! 黒斑 瑠璃ッ!」
「アハハッ……! 楽しみにしてる……。番さん」
その呼び名を聞いた瞬間、塙原の笑い声がほんの一拍だけ途切れた。
しかし、次の瞬間には先ほどよりも大きな笑い声が、夜空へ向かって高らかに響き渡っていた。
《PSYCHO RECORD》
氏名:黒斑 瑠璃
コードネーム:リコリス
年齢:20
性別:F
身長:152cm
体重:NO DATA
所属:レディベア・団長
発現分類:執着型
根源感情:嫉妬
固有異能:『|咲き止まぬ、愛しき日々よ《ラ・フルール・ア・エクロ》』
《真名を唱えた対象を遠隔から握り潰す》
身体所見:金髪/紅い瞳/黒に近い深紅のゴスロリドレス/テディベアを常時携行
精神所見:平時は表情および声の抑揚に乏しく、他者の苦痛や死に対しても反応は希薄。薔薇ノ園事件を境に世界へ強い憎悪を抱いている一方、自身が家族と認めた者には深い愛情を示す。実父母への思慕は現在も極めて強く、両親および事件に関する言及は精神状態を著しく不安定化させる恐れがある。
脅威度:★★★★★
特記事項:
・暗殺組織「レディベア」を束ねる団長。裏社会では、同組織から標的に指定されることは死そのものを意味するとされている。構成員を厳しく教育する一方、彼女達を我が子のように扱っている。
・常に一体のテディベアを抱えている。苛立った際には無意識に強く抱き締める傾向があり、表情に乏しい本人の状態を判断する数少ない指標となっている。異能との直接的な関連性は確認されていない。
・薔薇ノ園事件における数少ない生存者の一人。同事件で両親を失っており、事件を引き起こした殺人集団「ROSE」の首謀者を追い続けている。
・固有異能『|咲き止まぬ、愛しき日々よ《ラ・フルール・ア・エクロ》』は、対象の真名を唱え、掌を握り締めることで発動する。生物・無機物を問わず、指定した対象の一部または全体を、巨大な万力に挟んだかのように圧壊する。
・異能の発動時には掌へ鈍い深紅の光が灯る。出力を高めた場合、その光は周囲へ拡散し、接触した物体を厚みすら残さぬほど平たく押し潰す。影響範囲および最大出力については現在も不明。
・対象の真名を必要とする性質上、素性の判明していない相手には即時発動できない可能性が高い。ただし、非生物に対しては無条件に能力を発動出来る。
・好物はフルーツたっぷりのパンケーキ。




