第19診『権利』
グシャッ──。
ヴゥンッ! ギラァァンッ!
メキョッ──。
ヴゥンッ! ギラァァンッ!
グヂュッ──。
ヴゥンッ! ギラァァンッ!
腕が潰れ、肺が潰れ、果てには心の臓すら握り潰される。
だが、殺意が刻まれるたびに室内を揺がす重低音が轟き、神々しさすら帯びた黄金の閃光が塙原の肉体から迸る。
光が収まる頃には、潰されたはずの箇所は跡形もなく元の姿を取り戻していた。
死すら彼の前では許可なく訪れることのできない彼以外に過ぎぬようであった。
『あんな能力……。絶対に燃費悪いはず……。なのに……。なんでおめめ黒くならないの……?』
塙原は両腕を組んだまま、脚だけで豪快な蹴りを繰り出してくる。
リコリスはその間合いに囚われぬよう、蹴撃が空を裂くたびに後方へ飛び退いた。
奪還できる権利の範囲。発動の条件。肉体を再生させる仕組み。そして、異能を行使するうえで避けられぬはずの消耗。
幾つもの思考が答えを結ばぬまま、リコリスの頭の中を駆け巡ってゆく。
その間にも、白かったはずの強膜の縁へ、墨を一滴垂らしたかのような黒が滲み始めていた。
紅い瞳を取り囲むように。
「クハハハッ! 小娘ッ! どうやら限界が近いんじゃないのかァ?」
「今度は……。治りすぎ……。何を取ったの……?」
「クハハハッ! まだ分からぬかッ! ならば、その身をもって教えてやろうッ!」
むにゅっ!
いつ距離を詰められたのか。
リコリスが次に瞬きをした時には、既にその両頬を塙原の指で挟み込まれていた。
柔らかな頬は容赦なく押し潰され、可愛らしい唇がタコのように突き出している。
「ンンンッ?!」
「行くぞォォォッ!!!」
フッ──。
その声を残し、足場としていた床が視界から掻き消えた。
頬を摘まれたまま、リコリスの小さな身体まで宙へと攫われる。
次の瞬間には塙原は砕けた窓枠を一息に駆け抜けていた。
足元に広がるのは遥か眼下の中央都市。
頭上に待ち受けるは星々の煌めく夜の虚空。
「へ……。ふひょ……? ほんら……。へ……?」
「クハハハッ! 安心しろッ! 安全な着地を心掛けてやるッ!」
二人の身体は煌めく夜空を真っ逆さまに落下してゆく。
地上50階から幕を開けた命綱なき転落劇。
吹き荒れる風が紅髪を乱暴に巻き上し、リコリスの小さな身体を夜の虚空へ攫おうとする。普段は表情一つ揺らさぬ紅い瞳も、今ばかりは零れ落ちんばかりに見開かれていた。
そんな中、塙原は空中で徐ろに姿勢を変え始める。
まず、空いていた腕をリコリスの背中へ回す。
次いで、少女の頬を挟んでいた指を離した。
「んはっ……!」
解放されたリコリスの身体が、風に煽られて僅かに浮き上がる。
しかし、離れたばかりの腕が即座にその膝裏へ差し込まれた。
くるりと宙を一回転。
次にリコリスが目を開いた時、その身体は塙原の両腕へ、すっぽりと収まっていた。
俗に言う、お姫様抱っこである。
50階から絶賛落下中という状況さえ除けば、王が姫を抱き上げる絵画のように、完全なる黄金比を奏でた姿であった。
「クハハハッ! 喜べ小娘ッ! ここが世界で最も安全な俺の懐だッ!」
「安全の意味……。絶対知らない……」
眼下に広がっていた街並みが、みるみるうちに輪郭を増してゆく。
地上50階から始まった、命綱なき転落劇。
リコリスの指先が、塙原の剥き出しになった肩へ伸びる。一瞬だけ宙を彷徨った後、その肌を逃がすまいと強く掴んだ。
今ばかりは、この傲慢極まりない男へ身を預ける他に道はない。
「クハハハッ! 着陸態勢をキメるぞォッ! 信じろッ! 貴様もキメるんだッ!」
「なに言って……?!」
地面まで残り僅か。
「行くぞォォォッ!!!」
「待って……! まだ何も──」
ドゴォォォンッ!!!
轟音とともにアスファルトが陥没した。
大地を抉る衝撃が同心円状に駆け抜け、無数の亀裂が蜘蛛の巣の如く路上を侵食してゆく。砕けた破片が四方へ弾け飛び、巻き上がった砂塵が周囲の景色を呑み込んだ。
やがて、立ち込める砂煙が舞台の幕のように左右へ裂けてゆく。
そして、その中から姿を現したのは────。
片膝を深く曲げ、もう片方の脚を大きく横へ伸ばした塙原。
その両腕はリコリスの背と腰を支え、小さな身体を斜めに抱き上げている。
対するリコリスもまた片脚を天へ突き上げ、片腕をその爪先へ捧げるように伸ばしていた。
下側へ回したもう片方の腕には、テディベアがしっかりと抱き込まれている。
風に煽られた黒いドレスが、遅れてふわりと舞い下りた。
砕けた大地。立ち昇る砂塵。二人を照らす黄金の光。
その全てを演出に変え、皇帝と姫は見事な超絶惚々姿勢を飾っていた。
つい先ほどまで殺し合っていたとは到底思えぬ息の揃いようであり、正に中世絵画のような神々しさを放っていた。
「どうだ? 安全な転落劇だっただろう?」
「……着地だけ……。良かった……」
二人は落下地点を離れると、人目を避けて人気のない路地裏へと場所を移した。
表通りでは二人の騒動による野次馬で溢れ、どうも戻りづらい状況と化していた。
塙原は路地の中央で足を止めると、黄金の輝き80%OFFの上半身を堂々と反らし、再び両腕を組んだ。
その向かいではリコリスがテディベアを抱き締めている。黒く侵され始めた強膜の奥で、紅い瞳だけが塙原を捉えていた。
「クハハハッ! 俺は貴様に全てを晒すと約束したなッ? 俺は約束は守る男だ。先程、俺達の身に何が起こっていたのか──貴様に教授してやろうッ!」
「とても今更……。だけど……。知りたい……」
リコリスはテディベアを抱いたまま、僅かに顎を持ち上げた。強膜の端を侵食する黒の中心で、紅い瞳だけが瞬き一つせず塙原を捉えている。
塙原は片手を己の胸板へ添えた。講壇など何処にもないというのに、腰を反らしたその佇まいは宛ら世界の真理を説く賢者のようであった。
「俺が呼び戻したものは『変化』だ。俺の肉体に刻まれた傷という事象から、『変化する権利』を返してもらった」
「そんな……。本当に滅茶苦茶……。そんなこと言ったら……。何でもできちゃう……」
その言葉を聞いた途端、塙原の口角が大きく吊り上がる。
身体ごと彼女の方へ向けると、答えを求めて止まないその顔を覗き込んだ。
「戯け。俺様の能力なのだから随意自在は当たり前だ。元より森羅万象俺のものだからな。何度も言うが、権利など貸し与えている他ならん」
「めちゃくちゃな理屈……」
その言葉を聞き流しながら、塙原は路地の壁際へ視線を巡らせた。目を留めたのは固く蓋の閉ざされた大きな金属製のゴミ箱である。
塙原は当然のようにそこへ歩み寄ると汚れを払うことすらせず、分厚い蓋の上へ腰を下ろした。その体重を受けた金属がベコンッ、と情けない音を上げるが本人は意に介さず両腕を組み、ふんぞり返るように顎を持ち上げる。
路地裏に打ち捨てられたゴミ箱でさえ、彼が座れば王の威光を支える玉座へと昇格するらしい。
「だが、取り立てる以上は、此方も相応の代償を払わねばならん。一度はソイツの手に渡ったモノだからな。対価も払わず奪い取るなどという下賤な真似はせん」
そこまで語ると、塙原は片手で己の瞼を押し開く。そして、そのまま躊躇なく眼球の端へ指先を差し込む。
「…………何してるの?」
ぺりッ……。
薄い膜の剥がれる音とともに、眼球を覆っていた特殊なレンズが取り外された。
偽りの余裕が剥がれ落ちる。
その奥から現れたのは、夜よりも深い漆黒に染まった強膜。
その闇の中心では、橙色の瞳が灼ける太陽の如き輝きを放っていた。
塙原は指先に摘まんだレンズを眺めた後、もう片方の眼球からも同じように偽装を剥がす。漆黒の中に浮かぶ二つの橙が、夕暮れの空に並んだ双つの太陽のようにリコリスへと向けられた。
「何かを得るには、必ずそれに見合う代償が伴う。犠牲なき権利など、身の程知らずの詭弁に過ぎん。俺とてこれほど万象を動かせば消耗はする」
それまで胸の内側へ響くほどの声を放っていた塙原が、路地裏の静寂へ言葉を一つずつ置いてゆく。そこに先ほどまでの高圧的な態度はなく、代わりに理性的かつ冷静沈着な賢王としての素質が表に現れていた。
「なんでそれ……。耐えられてるの……」
「……? プッ、クハハハッ! 面白いことを聞くな貴様ッ! 俺だからに決まってるだろッ!」
路地裏の壁という壁に、遠慮の欠片もない笑い声が幾重にも反響する。
笑いが収まるとゴミ箱の蓋へ腰掛けたまま、塙原は組んだ指を膝の上へ置く。僅かに伏せられた視線はリコリスを見ているようで、そのさらに遠くを見据えているようでもあった。
「我儘を貫き通す力こそ、王の資質だと語る者もいるだろう。だが、それでは余りにも浅い」
声を荒らげることも己の偉大さを誇示することもなく、塙原は淡々と言葉を継いだ。
「望む全てを手にするからこそ、その全てに対価を支払う。手にしたものから目を背けず、最後まで己のものとして背負い続ける。それが、俺の考える王の在り方だ」
「……綺麗事だよ……」
「綺麗事で結構ッ! 地位とは綺麗事を現実へ押し通すためにある。それこそが世が皇帝を求める所以だからな」
そう言い終えると、塙原の口元に穏やかな弧が浮かべる。先ほどまで苛烈な輝きを放っていた瞳も落ち着きを取り戻し、夕暮れの残光のように静かにリコリスを照らしている。
テディベアへ食い込んでいたリコリスの指が僅かに緩む。押し潰されていたぬいぐるみの顔も、ゆっくりと元の形へ戻ってゆく。
それでも、紅い瞳は塙原から離れない。僅かに開いた唇は一度閉ざされたが、胸の内に残った言葉までは呑み込めなかった。
「なんで私に……。そこまで伝えるの……?」
塙原はすぐには答えず、橙色の瞳を細めた。その喉の奥から待ち望んでいた言葉をようやく耳にしたかのような、短い笑い声が零れる。
腰掛けていたゴミ箱から立ち上がると、リコリスの前までゆっくりと歩み寄る。そして、先ほどまで権利を取り立てていた掌を、命令ではなく願いとして彼女へ差し出した。
「リコリス。俺の仲間とならないか?」
《PSYCHO RECORD》
氏名:塙原 番
年齢:40
性別:M
身長:182cm
体重:85kg
所属:プライド社・社長/TEO財団・理事長
発現分類:充足型
根源感情:傲慢
固有異能:『我在故世有』
《自身が望む権利を呼び戻す》
身体所見:紅髪/引き締まった体躯/オレンジのシャツ
精神所見:極めて強い自尊心と自己肯定を示す。豪放かつ尊大であり、万象万物を自身の所有物と捉える。一方で、権利の裏には対価が伴うという信念を持ち、約束の履行を重んじる
脅威度:★★★★★
特記事項:
・プライド社の社長にして、TEO財団の理事長。「この世の全てを司る者」を自称し、他者を俺以外と呼ぶ。言動には誇張が目立つものの、それを裏付ける極めて高い戦闘能力を有している。
・固有異能『我在故世有』は、対象が有する「権利」を本人のもとへ呼び戻す。本人はこの行為を強奪ではなく「奪還」と説明しており、自身の手元にないものは全て、一時的に貸し与えていると主張している。
・発動条件は、本人が超絶惚々姿勢を取ること。その姿勢を取っている間しか発動しないため、姿勢を崩した時が狙い目だと思われる。ただし、自身の一挙手一投足をその条件に該当すると認識しているため、外見上の姿勢の変化から発動の有無を判別することは困難である。
・異能の行使には代償として、かなりの精神力を消耗する様子。本人はこれを「対価」と表現している。
・好物はインドカレー




